「共通の敵づくり」を設定するということ

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Photo by Tevin James on Unsplash

「障害者雇用の存在意義とは、“共通の敵”を飼うことで組織の結束を強めることだ」と本気で語る存在がたまに見受けられます。というか「少数の犠牲で残る多数を団結させる」という非倫理的な集団運営を現実にやっている者さえ存在します。私は中学の時にそういう大人を見ました。

内部から「共通の敵」を設定する集団マネジメントは、“生贄”を除くメンバーの結束力や仲間意識を高めることは確かです。即効性をもって集団がまとまる合理的な手段と考える人もいるでしょう。ただ、集団が何を目的としているのか、どこを向いて活動するのか、そういった中長期的な目線がごっそり抜け落ちています。共通の敵づくりで必死になる人々はあまりにも近視眼的に過ぎるので、気付くことは無いのでしょうけれども。

情報の限られていた大昔であれば兎も角、多くの情報や価値観が行き交う現代において「共通の敵づくり」はもはや時代遅れです。それにも関わらず、古い集団運営をやめられない“旧人類”のなんと多い事でしょうか。「えた」「ひにん」の概念を現代に復活させようと躍起になる者らも、必死にその対象を探し続けています。

内々で共通の敵を作ると、目的意識も内向きになります。組織の目的も「共通の敵をどう痛めつけるか」に留まり、外の状況や世情に疎くなるばかりか、倫理を逸脱した惨い仕打ちも平気でやるようなります。塗装会社の社長ら4人が鉄道自殺に見せかけて従業員を殺害した事件などは、共通の敵を痛めつけることに囚われ続けた集団の極致といえるでしょう。

また、共通の敵によって結ばれた結束も仮初めのものに過ぎず、簡単に崩壊します。辞めたり行方をくらませたり、或いは殺してしまうなどして共通の敵を失うとどうなるでしょうか。勿論、団結する理由を失い烏合の衆に逆戻りします。そして、まともに団結する方法を知らない世間知らずたちは、また新たな「共通の敵」を内部から作ります。あの「中野富士見中いじめ自殺」でも、被害生徒の「これ以上馬鹿なことはやめてくれ」という遺言も空しく、別の標的を探していたようですし。

共通の敵を内から作ることでしか集団をマネジメントできない大人と、それに乗っかることでしか他人と連帯できない大人。本来は淘汰される側であるべきなのに、社会人として手に職を持って君臨しているのは、現実の悲哀と不出来に他なりません。本気で他人と連帯した経験のない者に限って「手帳持ちは憎まれるために存在する」などと訳知り顔で語ります。

そもそも「人類にとって共通の敵が現れれば、世界中の人間は嫌でも団結する」というのも既に欺瞞だとバレています。「病」という人類共通の大敵が跋扈した出来事、すなわち「コロナ禍」を直近で経験した筈ですが、あの中で人類は団結したでしょうか。一つの目標に向かって結束するどころか、各々が勝手な思想を振りかざして分断を生んだのが実情ではなかったでしょうか。「共通の敵があれば団結する」と今なお本気で考えるのは、もはや漫画やアニメの見過ぎでしかありません。

遥けき博愛の郷

遥けき博愛の郷

大学4年の時に就活うつとなり、紆余曲折を経て自閉症スペクトラムと診断される。書く話題のきっかけは大体Twitterというぐらいのツイ廃。最近の悩みはデレステのLv26譜面から詰まっていること。

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