夢を叶えた後に気づいた自身の障害~目を背け続けたうつ病

うつ病

出典:Photo by Anantha Krishnan on Unsplash

みなさんには幼いころに夢やなりたかった業種はありましたか。私にはありました。その夢だった業種の仕事は転職を繰り返すことで、一通り経験できました。

しかし、転職理由は前向きではありませんでした。自身は他者より生きづらい要素が多いのではないかと気づきながらも、必死に目を背けてやってきました。しかしいずれ向き合わねばならないことでした。

夢だった仕事に就いてから生きづらさに気づいた方に読んでいただければと思います。

私は幼いころからの将来の夢を叶えたうちのひとりです。ただ、叶えてからは自分の気持ちは押し殺して適応しようとしてきました。しかし、いずれは自分自身と向き合わねばなりません。夢を叶えてから生きづらさに気づいた方に、読んでいただければと思います。

予兆

自分自身の危うさに気づいたのは10代後半でした。研修で東日本大震災の被災地を回ることになり、まだ復興の進んでいない街並みを数日間目の当たりにしました。被災地からの帰宅後、数日間眠ることができず、体調を崩しても、なお眠ることができなくなったのです。

授業も受けられないほど憔悴しきったころ、初めて心療内科を受診することになります。しかしながらその病院は色々な面で自身にあっておらず、途中で通院を止めてしまいました。

そのころから「心療内科というのは全てそんなところなのだ」と思い込むことになります。

病院にいかなくなったことを「治った」と自身に刷り込ませることで2週間ほどでまた授業にも戻り、当時並行しておこなっていた就職活動も再開することにしました。

自身の夢と現実

私にはある業界で働きたいという夢がありました。人の命をあずかる仕事です。そしてその業界の花である仕事がしたかったのです。

1社は良い所まで進んだものの性格適正の試験で落とされました。その試験結果の通知が来たときに「自分は何か精神的な障害を持っているではないか」という嫌な予感がしました。

しかし、ただでさえ先述の理由で就職活動を2週間休んでおり「今はそんなことを気にしている余裕などない」と焦り、必死に就職活動を続けました。

結果、望んでいた業界に間接的に関わる部品を製造する会社に内定をもらい、その会社に就職することになりました。

社会人1年目

就職先で私は職場の人間関係というものに初めて悩まされます。配属されたのは10人弱の部署でしたが4~5つほどの派閥があり、新人の私がたいてい仲介役に回されました。また、他部署との関係性は最悪で、工場内でクレームを出し合って案件に発展させるほど劣悪なものでした。

基本的にあいさつですら、お互いしないような空気感だったようです。しかし、そんな風潮を新人の私は感じ取ることができず、基本的にどの人にもあいさつをして休憩時間には雑談していました。

他部署の方は基本的に派閥や部署で区切りを設けず、優しく接してくださりました。飲み会の席にも誘っていただくことが何度かありましたが、それが派閥内で直属となった上司たちは気に入らない様子でした。

次第に自分が間に入っても解決できない他部署や自部署内の揉め事が増えていきました。他部署の方や別の派閥の先輩が相談先でしたが、機密が関わり内情を明かせない状況にどんどん陥っていきました。

いつからか作業効率も落ち、慣れた作業でもミスも多発するようになりました。どうしたらいいか分かりませんでした。「憧れの業界を支える部品を作っているんだ」というモチベーションもいつしか薄れていってしまったのです。

配属から1年がたとうとしていたある日、作業中になぜか涙が止まらなくなり、それを境に記憶が飛んでいます。ほぼ丸1か月の記憶が飛んでいます。

その間

・会社には連絡を入れられる状況ではなかった
・そんな状況に陥ってもなお、心療内科で嫌な思いをしたために受診しなかった
・友人との連絡はおろか飲食等の生活するのに必要最低限の行動すらままならなかった

といった状態になっていたと後から周囲に聞かされました。

1か月ほどしてから退職願を出しにいったことと「なにも話さなくていいから、話だけ聞いてくれ」と電話をくれた友人の声だけは微かに覚えています。

憧れの企業

退職をしたタイミングで友人からの紹介があり、ある企業でアルバイトとして採用されることになりました。私が一番就職したかった会社のアルバイトでした。

「アルバイトからステップアップで社員まで登り詰める」という目標が自分の中でできました。アルバイトは20名ほどで僕の様な目標を掲げる人は皆無だったため、将来どうするかということを聞いてきた社員の方もその目標をサポートしてくれることになりました。

しかし、2年目に入って掛け持つ部署が増えたとき、その目標を知ったあるアルバイターから嫉妬され、お客さんの前で蹴られたり殴られたり、社員を目指すことを槍玉に挙げて「お前の生き方は間違っている」などの説教を毎日のように受けることになります。

しかしながら「この程度で弱音を吐いては社員に上がることは難しくなるだろう」という考えに陥り、相談することはできませんでした。結果、ストレスを溜め込み過ぎて逆流性食道炎になり、しばらく苦しむことになりました。

しかし、3年目に突入する少し前に登用制度に大幅な変更が加わることになりました。アルバイトからの社員登用制度がなくなったのです。私は目標を失い、続ける理由がなくなってしまったので退職することにしました。

退職願を出し、その後引継ぎ期間の1か月の間にアルバイターから嫌がらせを受けていたことを社員の方に伝えて、会社としてどのような方針で今後対策をしていくのか何度も話し合いました。僕の後に入ってきた方々が、同じ理由で退職するのを防ぎたかったからです。

憧れを造る

しばらく他のアルバイトを掛け持つ日々を送っていたある日、友人から「仕事が人手不足で足りないから受けてみないか」と誘いをうけました。夢だった業界を支える製品の整備をする会社でした。整備にも興味を持っていた私は面接の機会をもらい、結果としてその会社に入社することになります。

しかし、紹介をしてくれた友人が体調の問題から1か月で退職してしまい、その後引き継いで指導役をしてくださったベテランの方も、半年後に上層部と意見の食い違いを理由に退職してしまいます。夢だったものに直接携わる業務内容だったため、やりがいは今までにないほどありましたが、この2人は相談先だったため、私は途方に暮れました。

昼休み以外、休憩を取らずに作業をする作業長に過度に気をつかったため、休憩が取れなくなってしまい、休日出勤も断れなくなるほどに心が弱っていきました。人が辞めて人数は減るものの新しい人は入らず、会社に残ったメンバーの残業や休日出勤が大幅に増え、ほぼ徹夜の状態で出勤する日もありました。1社目の時と同じように気づけば作業効率も落ち、慣れた作業でもミスが多発しました。

ミスを多発する私に作業長は「頭おかしいんか」などの罵声を浴びせることが日常的になりました。そんな日々もやがて限界を迎えます。

ある朝、吐き気のためトイレから出られなくなり、会社に連絡して休みました。

自分自身で「やはりどこかおかしいのでは」と思い、内科ではなく学生時代にいったところとは別の心療内科を受診しました。これにもかなりの勇気が必要でした。今までの心療内科のイメージが何年も自身の中で残っていたからです。しかし、そこは私のイメージを根底から崩すような温かい病院でした。受付の時点で安心感のあまり泣きそうになりました。

そこでいろいろな検査を受けて、初めて「ADHD(注意欠陥多動性障害)」と「パニック障害」の傾向があり、現在重度の「うつ病」になっていると診断されました。これから先のことを考えると、この診断結果は私には酷でした。それと同時に不思議と安心感もあり、今までの悩みが解決しました。埋まらなかったパズルのピースが埋まったような、そんな感覚でした。

夢が醒めたら

私は一先ず休職することになりました。休職届を出すと会社からは「1か月で戻らなければ辞めてもらう」という内容の通知が送られてきました。

「せっかく夢だった業界の製品を作れる仕事に就いたのに、ここで諦めてたまるか」という思いと「もう自分の状態を無視して生きていくのは困難なのではないか」という思いが交錯しました。

期限が迫るに連れ、これ以上自分自身を騙して無視して生きていくことは困難だということが明白になっていき、1か月で戻れなかった私は退職することになりました。

夢の終わりでした。そして、同時に自身を受け入れることの始まりでした。

現実と第一歩

およそ四半世紀、私は自分自身のことを「変わり者だけれども普通の人間」だと思って生きてきました。

しかし、これから生きていく上では診断結果を受け入れるのが一番遠回りせずに、自身のハードルを下げる唯一の手段でした。これら全ても自分として受け入れなければ、また今までと同じ過ちを繰り返すと分かっていたのです。

それでも現実をどこか受け入れきれない自分がいました。1人で書類にサインをしている時は「うつ病」という診断名を手が震えて書けない、書類を提出に行かねばならない足がすくんでいけずじまいで、夜を迎えたりした日が何日も続きました。病院にもいけない日もありました。

しかし、時間をいくらでもかけてみました。行動できたときは自身が提出期限でよっぽどピンチになるか、少しでも自身の受け入れができた証拠かのどちらかでした。

それが自分自身の置かれた環境を知って受け入れる、それが第一歩でした。

もう一歩と足跡

自分自身が出している救難信号に対して、こうしてまとめるまで気づいていなかったわけではありません。気づいていたものの無視し続けて来たのです。しかし、それらはいずれは向き合わなければならないことばかりでした。

今、私は就労移行支援事業所に通いながら自分自身が後回しにしてきた特性に向き合っています。

私自身どこでどのようにして精神的な障害を持つようになってしまったのかは分かりません。早めに気づいて対処することができれば、転職を繰り返さずに済んだのではという後悔もまだあります。しかしそれらを遡ることはかえって自分を蝕みます。

私は今がスタートラインだと思ってうつ病という診断を受け入れていっている最中です。もしかすると別の道に進んで就職する可能性もありますが、自分を受け入れた上で、また別のアプローチだとしても憧れの分野で就職ができればと考えております。

もしかすると、夢は叶えたけれども同じような悩みを持っている方もいらっしゃるのではないかと思います。

一度、心療内科にいって嫌な思いをされたことがもしもあったとしても、また別の病院にいってみてください。いつか必ずご自身に合った病院が見つかるはずです。少し前と違って今は口コミなども充実しています。ヒントにしていただければと思います。

悩みが大きくなっていく前に、どうか早めに対処してください。気づいたときがゼロ。スタートラインです。

きっと夢の続きを作りながら、自分自身と向き合う方法はたくさんあると思います。どうか夢を諦めず自分自身と向き合う時間を作ってみてください。

私と少しでも似た状況の方に、このコラムが届くことを心から祈っています。

アースコード

アースコード

趣味はカメラを持って旅行に行くことで、最近ハマっているスポットは広島県の尾道市です。オススメ。最近は行けてませんが、3か月に1度はライブに音を求めに行くタイプ。就労移行支援事業所に通いながら気兼ねなく邦ロックが生で聴ける日を楽しみに毎日就活中です。

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