「アシュリー事件」「アシュリー療法」を知っていますか?

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Photo by Jonathan Borba on Unsplash

2000年代中頃、重度身体障害を持つ「アシュリー」という女児が、両親の強い希望で医療介入を受け、成長を止められるという出来事がありました。その後、両親がブログなどで発信した弁明から、この出来事は「アシュリー事件」あるいは「アシュリー療法」と呼ばれるようになります。

「成長を止める」という目的の大規模な医療介入に対し、世間は賛否両論に分かたれました。「尊厳を踏みにじる暴挙」「人ではなく制度を変えろ」という反対の声と「介護の大変さを知らないくせに語るな」「家で介護し続けたいという愛情の表れだ」という賛成の声です。

身体の成長を止める

1997年に生まれたアシュリーは、先天的な脳の障害で重度の重複障害を抱えるシアトル在住の女児です。食事も経管栄養を要するほどの寝たきりで、知能は生後3~6ヶ月とされています。ただ、泣いたり笑ったりお気に入りの音楽に反応したりは出来ていました。

2004年、6歳のアシュリーは両親の強い希望で大規模な医療介入を受けることになります。子宮の全摘出・乳房芽の摘出・ホルモンの大量投与による成長抑制の3つです。目的は身体の成長を止めて介護しやすくすることで、生理や胸のふくらみを廃したのも生理痛などのリスクを消し去るためでした。結果、アシュリーの身体は9歳半で成長を止めることとなります。

3年後の2007年、年明けに両親が「The Ashley Treatment(アシュリー療法)」と題するブログを開設します。ロサンゼルス・タイムスがこれを報じたことで、アシュリーのことは全世界に知れ渡りました。ブログでは医療介入に踏み切った動機や意図だけでなく、同じ重度障害の子どもにも広く奨励する内容が記されていたそうです。

3年越しの紛糾

アシュリーの受けた医療介入は約3年越しに明るみとなり、世界中に大きな波紋を広げました。障害者の人権擁護団体やフェミニズム活動家などが猛抗議し、「捜査しろ」「尊厳を踏みにじる暴挙」「人ではなく制度を変えろ」と激しい非難に晒されます。今でいう大炎上というべきこの状態は「アシュリー事件」として語られるのも当然でしょう。

アシュリーの父親は「重い障害を持つ娘のQOLを維持向上させる手段として医師に頼んだ」「生理痛も胸のふくらみもない、常に横になれて移動もさせやすい、小さくて軽い身体の方がアシュリーにとっても快適」「アシュリーのニーズは赤ちゃんのニーズと同じ。女性として成熟させるより9歳半で止まった方が相応しいし尊厳がある」と、娘の為にしたことだと強調しました。

一方で「自分では何もできない寝たきりで頭の中は赤ちゃんなのに、(身体だけは)一人前の女性として成長するなど、私達にはグロテスクにしか思えなかった」とも述べており、アシュリーの両親は介護を楽にするため理由をつけて医療介入を頼んだのではないかという見方もあります。何なら、本人の意思や尊厳より家族の介護環境を優先させたエゴだという直球の批判意見も存在します。

担当医の論文も、編集者が彼らの意思に反して「背が低く軽い方が長く家で介護できて幸福、という仮説は科学的に検証されていない」「優生思想の歴史から見て最大限の慎重さが求められる。やるなら最大のセーフガードと保護が必要」と問題点を取り上げ、慎重な議論を呼びかけていました。

取り返しのつかない医療介入がテーマとなった以上、批判と擁護のどちらもかなりの熱量を帯びています。激しい論争の余波か、アシュリーを担当した執刀医が自殺する事件まで起こりました。

擁護の声

賛否両論に分かれた以上、アシュリーの両親を賛美する声もまた上がっていました。「勇気ある英断」「ここまでして家で介護し続けたいという親の愛に感動した」と褒め称える声や、「介護の大変さを知らない者に批判する権利はない」と介護負担を盾に批判を封殺しようとする者、中には「うちの子にもやってくれ!」と熱望する親まで現れています。

自然に成長して介護負担を増やすよりも、なるべく幼いままの身体に留める方がいいという観点から、「アシュリー療法」という呼び方もされています。

担当医は─論文で慎重な議論を呼びかけた編者や論争の半年ほど後に自殺した執刀医と違い─自身の医療介入について論文や討論会などで以下のように正当化し続けました。

「利点のありそうな真新しい療法を、過去の優生手術を理由にやめてはならない」
「就職も恋愛も出来ない人にとって、本来の背丈より小さいことにどういう社会的不利があるのか想像しがたい」
「生後6ヶ月の世界に反応するなら、生後6ヶ月として接するのが尊厳だ」
「人権擁護の方々とアシュリーとでは状態が違うと認識してもらいたい」
「何が尊厳で何が人間的で何がQOLかというのは、その人の立場によって違う」

更に、障害新生児の安楽死容認論で騒がれていたピーター・シンガー教授は、批判派に対してこう述べました。「幼児よりメンタルレベルの高い犬や猫でも、我々は尊厳を考えないではないか」

だって、どうせ、障害者だし

「アシュリー事件」について追い続け著書まで出した、作家の児玉真美さんは、擁護派の考えに「だって」「どうせ」が多いと断言します。

「だって、中身が赤ちゃんだから」「どうせ、本人は分からないだろ」「どうせ、子宮など必要ない」というニュアンスが言外から伝わってきたという児玉さんは、「『どうせ』を一度使ってしまうと、向けてみたくなる対象はいくらでも出てこないか?」と警鐘を鳴らします。児玉さんは安楽死議論でも同様のことを言っており、これを「滑り坂論法という詭弁だ」と非難する人もいますが、果たしてそうでしょうか。

例えば、最近の調査で「20代男性の4割がデート経験なし」という結果を見て、「非モテは去勢すればいい。どうせ必要ないから!」と国に働きかけるようなものです。国も政治も、様々な「どうせ」を真に受けるほど馬鹿ではないという保証はあるのでしょうか。

討論会で自己弁護していた担当医に、ある障害者が言いました。「社会というのは、健康な臓器の摘出でコスト削減が可能と分かれば、やってしまうことを忘れないでほしい。機会さえあれば、社会はいつだって障害者を犠牲にして大衆へ向かうのだから」

両親はアシュリーのことを「ピローエンジェル(枕の天使)」と呼ぶなど、一応の愛情は持っていました。そんな親のエゴか愛情かで成長を9歳半で止められたアシュリーは、現在生きていれば25歳となっています。

参考サイト

障害者は健常者に「消費される」存在ではない(ページ2)
https://toyokeizai.net

児玉真美「“アシュリー療法”論争」
http://www.arsvi.com

遥けき博愛の郷

遥けき博愛の郷

大学4年の時に就活うつとなり、紆余曲折を経て自閉症スペクトラムと診断される。書く話題のきっかけは大体Twitterというぐらいのツイ廃。最近の悩みはデレステのLv26譜面から詰まっていること。

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