統合失調症でも、生きていく~第三章

統合失調症

出典:Photo by Ali Kokab on Unsplash

統合失調症でも、生きていく 

派遣の仕事の契約が切れるころ、生涯で一度でいいから、正社員の事務職につきたいと思っていました。29歳、ギリギリの年のような気もしましたが、探せば何かあるだろうとハローワークに通いつめました。一生懸命努力して、職務経歴書の指導や面接の指導などを受けつつ、毎日活動していました。当時処方してもらっていた薬のおかげか、対人恐怖症、統合失調症の症状は緩和されており、どこへいっても過度の緊張はなく、誉めてもらうことも増えていました。そして、念願の正社員で営業事務に就くことができたのです。

喜びとストレス

とてもいい職場でした。13人ほどの営業所でしたが、全員が明るく、とても心地よく働くことができました。もともと、人のサポートをして働くことが好きだったので、課長の下で働けることは、とてもやりがいのあることだったのです。他の会社に友達もでき、コンパなどにも率先して参加していました。とにかく、このころは病気のことなどすっかり忘れて、人生を謳歌していました。暗い過去があるからこそ、今が輝いているような、そんな気持ちだったのです。

しかし、いいことばかりは続きませんでした。仕事量が急激に増えた時期があり、できないことも引き受けてはストレスを抱えてていました。また、当時貧血がひどく、毎月有給を使っては休んでいました。倒れたこともあるくらいです。

そのせいか、いつもは自分にとって大切な居場所であるはずの職場が、非常に息苦しく感じていました。古い体制の会社だったので、生理休暇などとても認めてもらえなかったのです。有給が無くなりかけたころ、一緒に働いていた社長の息子さんが「これ、有給無くなったらどうなるんですか?」と、突然問いかけてきました。何も返事ができませんでした。「どうなるのか、そんなこと私が聞きたい」不安で押しつぶされそうになりました。

それからどれくらいたったころでしょうか。いつも通り仕事を終わらせ、家路に向かう途中でした。今までになく、イライラとした感情がふくれあがり、脳が興奮していました。帰ったとたん、玄関先で迎えてくれた母に向かって叫びました。「もう無理!もう明日から入院する!!」そのあと、どうやって入院したのか詳しくは覚えていません。会社にも次の朝、母が電話で事情を話してくれていました。自分でかけるべきだったと思いますが、そんな精気も勇気も、そのときの私にはなかったのです。

4人部屋の1室に入院しましたが、そのときは「今回の入院ではできる限り誰とも知り合いにならないようにしよう」と決めていました。とにかくひとりでゆっくり休息したかったのです。部屋でひたすら音楽だけを聴いていました。

しかし、この入院ではただ休むだけではなく、ひとつの目的もあったのです。生理休暇を認めてもらい、再び職場で働けるよう、診断書を書いてほしかったのです。院長先生はこころよく受け入れてくださいました。会社の所長は優しい人だし、今回のことで理解してもらえるかもしれない、と期待していたのです。

ですが、退院した私はもう、変わってしまっていました。実家住まいだったからでしょう。「自由」の心地よさに負けてしまったのです。三十過ぎにもなって、生きていくことの重みを理解できていなかったのでしょう。あんなに望んで、苦労して手に入れた居場所を簡単に捨ててしまったのです。

母と2人で出かけていた時でした。突然私は「仕事をやめる」といい出しました。とにかく私はいつも突然なのです。しかも事務所にもいかず、電話1本で所長にそのむねを伝えました。所長は優しく「分かった。体を大事にしなさい」と、一切私をとがめなかったのです。そのとたんに、涙があふれだし「ああ、私は本当に大切なものを手放してしまったのだ」と実感しました。

本当に居心地がよかった職場の風景を思い出しました。まったく仕事ができなかった私に、一から丁寧に育てあげてくださった人々。仕事には非常にきびしいけれど、いつも笑い声であふれていた職場。心の中で、何度謝ったか分かりません。12月退社だった私に、驚くことがおきました。元旦に営業所の全員から、年賀状が届いたのです。こんなに迷惑をかけた私に……また涙が止まりませんでした。

「また遊びにきてください」職場で毎日目にしていた課長の字がまぶしかったです。

そして私はしばらく何のストレスもない実家生活を送っていました。毎朝、愛犬の「まりも」の散歩のために早起きし、近所の公園に行くのが日課でした。公園で綺麗な草花を見つけては花瓶に飾ったり、部屋の模様替えをしたり、少しかじっただけの油絵を見よう見まねで描いてみたり。そのころの精神状態は非常によかったように思います。しっかりと、自分の生活を自分でコントロールできていたころでした。

しかし、精神病に完治ということはありません。この後、私はまた間違ったことで、統合失調症が再発してしまうのです。

病気の再発

ある日、私の大好きなアーティストのライブが大阪城ホールでおこなわれました。平日だったので、1人でいきました。あのころのホール前といえば、ミュージシャンを志す大学生やフリーターの人たちが、よく路上でライブをしていました。その日、ふっと耳に止まった声がありました。路上バンドなど、まったく関心がなかった私は自分で自分に驚きました。ものすごく心地のよい声と音色が響いていたのです。プロのほうの開演時間がせまっていたので、手帳のメモ部分に自分の携帯アドレスを書いてボーカルの人に渡しました「もっと、聴きたかったです」といって。家に帰ってメールが入っていることに気づき、メッセージを開くと「ホームページにライブ情報を載せています」と、リンクが貼ってありました。

このことがきっかけで、たびたびライブを聴きにいくようになりました。あまりの声の美しさに、私はだんだんと自分の気持ちを「恋」だと勘違いするようになったのです。バンドのメンバーはシャイな人ばかりで、ほとんど話をしたことがないのに、ライブにいくたびにボーカルの男の子のことを好きになっていきました。ついには向こうも私のことが好きで「この歌詞は私に向けて書かれている」などと思い込むようになってしまいました。統合失調症の再発です。

統合失調症患者の思い込みは非常に激しいです。少なくとも私の場合は。毎日一方的にメールを何通も送るようになりました。ライブは夜におこなわれるので、ライブハウスから自宅までは1時間ほどかかります。すると、どうしても寝るのが遅くなります。何にもしばられていなかった私は、さらに異常行動をおこなうようになりました。眠前の薬を飲んだ後、睡魔に襲われながらもホームページを検索し続けたり、音楽を聴いたり、部屋を締め切ったまま油絵を描いたりしていました。

朝起きるのも遅くなりました。さすがに親も私の異常さに気づきだします。「もうライブにいくのやめなさい」私はイライラしていました。失調症の状態の時の私は親に口答えをするようになります「明日から入院した方がいい」両親の判断でした。私は彼に会いにいけないのは嫌でしたが、もう一度対人恐怖の治療を受けたいとも思ったので、入院を受け入れました。

初めは管理部屋でした。今思うと、統合失調症は非常に悪化していました。夜中に看護師さんが飛んできたのを覚えています。管理部屋の窓をたたいて、何か叫んでいました。覚えているのは、例のバンドが目の前にいるという妄想。彼らのライブの応援にいっていると思い込んでいたのです。

無自覚の恐怖

管理部屋から普通の4人部屋にうつれた私は、とにかく全部の病室の女性たちに挨拶にいきました。不思議がられたり、迷惑がられていることにも気づかずです。年下の自閉症の女の子に会ったときは、「この子なら私でも治せる」と思い込み、いろいろと話しかけているところを他の人に見られ「変な人が入ってきた」とすぐ噂になったようです。

それでもなにも感じませんでした。しかし、みんなが怒っているということは本当に嫌だったんだと思い、自分の悪口をいっているグループに謝りにいきました。自閉症の女の子にも謝りました。あれだけ嫌われても平気なんだから、もう対人恐怖は治っているのではないかと、私は思い違いをしてしまったのです。

そしてある日、私は外泊の許可のもと、実家に戻りました。その日の夜も、妙な夢を見ていました。非常にスピード感のある夢で、長編の映画をみているような感じでした。後から母に聞くと「何かぶつぶつとつぶやいていた」らしいです。軽い夢遊病だったのかもしれません。

もうひとつ奇妙だったのは、外泊のために帰る途中も幻聴が聞こえていました。例のバンドの彼が、私の父と会話している声でした。当時は「彼が私のことを好きだからこんな声も聞こえてくるんだ」とクスクス笑いながら聞いていました。今思うと、非常に気味が悪いです。統合失調症が強くでているときは、以前の恐ろしかった幻聴の記憶も忘れてしまっていたのです。

対人恐怖が治ったと勘違いした私は、勝手にもう「退院する」と親にいいました。私の異常行動は医師にも伝わっており、当時の主治医から「もうあなたには強い薬は必要ありません!お金を返しますから薬を返して下さい!!」といってきたと母から聞きました。どういった意図でそういわれたのかはよく理解できなかったのですが、やはり私の行動すべてが身勝手で迷惑をかけていたのでしょう。

そして強い薬が体から抜けたとたん、病院で私を嫌っていたメンバーの顔が浮かんで、急に怖くなりました。しばらく、通院には母に付き添ってもらいながら通いました。誰にも見つかりたくなかったのです。

強い薬が抜けた後の私はひどかったです。自分がとてもみにくく感じました。そして、何もする気がしませんでした。もう一度、私は薬の調節や、何かあったときに病院の方が安心のような気がして、比較的症状の軽い人が入る東3病棟に入院させてもらいました。

前回は東2病棟だったので「多分、会いたくない人には顔を合わせることはないだろう」と思ったからです。しかし、東3病棟も居心地はよくなかったです。男性が多く、ジロジロと見られたり、話しかけられたりしました。ここでも幻聴は聞こえていました。ベッドで横になっていた時に、おそらくラジオ体操の音楽であっただろうものが幻聴と混ざって聞こえ、みんなが私を笑いものにしている声に聞こえたのです。

ここにいるともっと悪くなると判断した私は、今度は重病患者の入る西2病棟に移りたいと申し出ました。そこなら話しかけられることも少ないだろうし、個室に入れるというメリットがありました。新しい建物だから、気分転換にもなるとも思いました。個室でゆっくり治療したかったのです。

その希望はすぐに通りました。女性ばかりの病棟だし、当時の私には向いていたと思います。処方された薬も自分に合っていたようで、いい精神状態になり、わりと早くに退院したように思います。このころ先生が変わり、現在の主治医にめぐり会えたのです。

とてもひどい状態だった私をかなりまともな状態にしてくださった先生です。約12年前からずっと同じ先生のもとにかよい続けています。常に私の病状に適した薬を考え抜いて、薬の要・不要を判断してくれます。悩み事にはしっかりと時間をかけて相談にものってくれます。先生がいなければ、現在の私はいなかったでしょう。ストーカーのような行為も自然としなくなっていました。

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macaron

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統合失調症、その他の精神病をわずっている主婦です。
犬猫が好きで癒されています。

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