HSPと、ともに。

住まいも仕事も転々としていた過去の話〜HSPと、ともに。<vol.70>

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HSPと、ともに。vol.70 <毎月1日連載>

今でこそ、住まいも仕事も続いていますが、私は過去に住まいも仕事も長く続かず転々と変えていたことがあります。その理由を考えてみました。幼少期から長く住んでいた家は兵庫県西宮市にあり、阪神大震災の後も、2年住んでいましたが、だんだん引越したいと思うようになりました。震災で家はヒビが入るくらいで助かったのですが、私はパニック障害を発症し、震災前に病気で亡くなっていた母との想い出がいっぱいの家にいるのが辛くなってきて、家具や食器などをたくさん捨てていたら、近所の方々に、もったいないと心配されるようになりました。また、お菓子を持って私の精神的な病気を励ましに来てくださる近所の方々のことも、鬱陶しいと思うこともあり、誰も知らないけど、ここから近い所、母と出かけた想い出の芦屋で人生をやり直したいと父にお願いしました。薬を飲みながら外出できるようになったので、抑圧していた感情を発散するために劇団に入り、ドラマの撮影にも呼んでいただきました。撮影会モデルのお仕事もしました。パニック障害でもできる単発で高時給の仕事を、その当時考えていました。

子どもの頃から私は人付き合いも勉強も苦手で、将来働くことを考えたら、自分も学校の先生も心配になって早く結婚することをよく勧められました。父が会社を経営しているので、高校生の頃からアルバイトをさせてもらっていて、卒業してから正社員になりました。コンピュータースクールにも通って、Macでデザインする仕事をしていました。父は元新聞記者なので、いろんなところに文章を書く仕事をしていました。私も、取材で写真を撮りに行くこともありました。勉強のためにいろんな本も買ってもらったり、楽しい仕事でしたが、ストレスゼロのこんな甘い人生で良いのかなとふと思うようになりました。

阪神大震災の時、花屋さんでアルバイトをしていました。父の会社を辞めて、今度はお花の学校に通いました。母のお葬式の時に、たくさんのお花に癒されました。母はとても明るくて人付き合いが得意で、お参りに来る方も多くいつもたくさんのお花を供えていました。お花を見ていたら、本当に綺麗で癒されました。母の日にカーネーションを持って、入院している母のお見舞いに行ったら、とても喜んでくれて、遺してくれた手紙にもそのことが書いてありました。私も花屋さんで働きたいと思いました。フラワーアレンジメントはとても楽しく、得意分野でした。普段苦手なことが多いので、好きなことを見つけたことが嬉しかったです。母を亡くした傷もお花と向き合うことで癒えていくと思っていました。お気に入りのとても可愛い花屋さんがあったので、私は働かせて欲しいとお願いしました。募集もしていなかったのですが、アルバイトで採用していただくことになり、その行動を家族は驚きました。その時は嬉しくて、働いているのも楽しかったし、可愛がってくれる人もいました。いちばん恵まれていた環境だと思います。忙しい時期は、残業をしてたくさんのフラワーアレンジメントを作りました。FAXや電話は苦手であまりしませんでしたが、接客は、自分が花束やアレンジメントを言われた通りに作れば喜んでいただけたので、楽しかったです。弟が彼女にクリスマスプレゼントを作って欲しいと来てくれたこともありましたが、デザイナーとして活躍されている彼女(現在は海外の有名ブランドも手掛けています)にも喜んでいただけたことも、とても自信になりました。欲しいお花は自分で発注させてもらえたので、赤いガーベラとコットンフラワーをお願いしました。今でも覚えています。クリスマス時期の可愛いお花屋さんでの想い出は今では夢のようです。

クリスマスが終わると、お正月の準備に入りました。ここからが、花屋さんの超多忙の時期になります。残業で疲れもとれず、水仕事で手も荒れていきました。阪神大震災の前の日は風邪をひいて高熱で、その日も仕事を休む電話をしていました。震災で私は仕事をなくしました。お店の社長に会いに行くまでにも瓦礫のいたるところに花束が置かれていて、そこで亡くなったことがわかる目印のようでした。もう花束を作ることもできなくなりました。それから、しばらくして新しい仕事を探します。新聞に入れるチラシの営業とデザインや、アクセサリーに値札をつけたりラッピングをしたりの販売準備や、レンタルビデオ店の棚卸しや球場の掃除など、いろんな仕事があるんだなと思いながら、転々としていましたが、震災から1年後に、パニック障害を発症してしまいました。

それからは、パニック障害でもできる仕事をいつも探していました。環境を変えたいと、東京で一人暮らしをして、お昼はケーキ屋さん、夜はスナックで働いていたこともあります。弟が東京の大学に行ったので、私もあとからついて行って、好きなマンガに出てきた憧れの、おしゃれで制服も可愛いケーキ屋さんでアルバイトをしていたら、近所のスナックのママさんと仲良くなって、お店でご飯を食べさせてもらうようになり、お手伝いをしていたらお小遣いをもらえるようになりました。ケーキ屋さんよりスナックの方が自分では向いているなと思いました。実家に帰った後も、ママさんには最近まで仲良くさせていただき、長くお世話になりました。母も、女性の友達もほとんどいないので感謝しています。

現在の仕事の前は5年間、絵を描いて雑貨を作ったり、アクセサリーを作ったりしていました。販売させていただく機会やお店がどんどん増えていき、素敵なイベントやお店でとても恵まれていて楽しかったです。アクセサリーを作るようになって、憧れのお店で販売できるようになると目標にしていたお店から、販売できる連絡をいただけたのに、その頃材料でアレルギーを発症し、体調も崩したため、制作活動を諦めて、現在の仕事だけにしました。

ASDやADHD、HSPやパニック障害があり、疲れやすく、感覚過敏や人付き合いなど苦手なことも多く、生きづらさもありますが、やりたいことを見つけたら学校に通ったり、いろんな仕事に挑戦していたんだなと思いました。憧れのお花屋さん、ケーキ屋さんでも採用していただけたり、振り返ると嬉しいこともたくさんありました。ケーキ屋さんは人気店で忙しく、有名人が来たり、ドラマに使われたりと、さすが東京だなと思いましたが、パニック障害があって、体力的にきつい時があることを店長に伝えたら、シフトなどを調整していただけました。それでも限界が来て辞めましたが、好きなお店なので今でも買いに行きます。

現在の仕事は、会社設立から7年くらい続いています。家も、実家近くのお気に入りの芦屋のデザイナーズマンションから、家賃を下げるために会社のある大阪に引っ越して、同じく7年くらいになります。現在は、父も再婚をして会社のある大阪に引っ越し、実家はもうありません。今まで仕事も家もいろんな理由で転々としてきましたが、さまざまな場面で現在活きていると思います。多忙ですが、やりがいもあるのでできる限りがんばりたいと思います。

川田 直美  障害者ドットコム株式会社スタッフ

川田 直美  障害者ドットコム株式会社スタッフ

HSP、ASD(自閉症スペクトラム)、ADHD、LD(学習障害)があり、発達障害をコンプリート。パニック障害もあり、生きづらさも感じながらも、日々楽しくいこうと考えている。今まで、花屋、ケーキ屋、カフェ、デザイン企画、オリジナル雑貨制作などいろいろな仕事を経験。自然と犬と本が大好き。

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