障害者の過去をたどる旅~健常者にとっても他人事ではない「T4作戦」

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出典:Photo by Michael Fousert on Unsplash

「T4作戦」。日本ではあまり馴染みのない事件名かも知れません。しかしこれはれっきとしたナチス・ドイツの起こした戦争犯罪であり、主に知的障害・精神障害者を対象におこなわれた虐殺作戦を指します。「20世紀最大の悲劇」と呼ばれるホロコーストと比べると知名度が低いT4作戦ですが、我々が忘れてはならない事件です。

はじめに

私が「T4作戦」を知ったのは、コラムの題材探しでインターネットを見ていたときでした。最初はぼんやりと記事を読んでいたのですが、内容を理解するにつれ、抑えがたい怒りを感じました。

なぜならT4作戦とは、ナチスが主導しておこなわれた、障害者をターゲットにした大虐殺のことであったからです。

産まれる時代と場所が違っていれば、自分も殺されていたかもしれない。障害者である私は、打ちのめされましたた。

公式な資料では、T4作戦における犠牲者は少なくとも7万人。後述する「分散した安楽死」の犠牲者を加えると、ナチスに最終的に命を奪われた障害者は20万人とも、データによっては40万人以上ともいわれています。

しかし日本ではT4作戦の実態が、あまり知られていないように思えます。

そこで、まずはT4作戦がなぜ起こるにいたったか、作戦がどのようにおこわれたのか、そして戦後どのようにT4作戦を風化させないための努力がなされたのか、探っていきたいと思います。

第1章 なぜT4作戦が実施されたのか

なぜナチスはこのような戦争犯罪をおこしたのでしょうか?それは歴史を19世紀までさかのぼり当時の様子を知る必要があります。

1869年、ダーウィンは「種の起源」のなかで動植物界における「自然淘汰による適者生存の法則」という考え方をしめしました。

これは「自然環境の中で生存に適しない動植物は淘汰され、適応力のある有能な種だけが生存競争に勝ち残れる」という考え方です。

ダーウィンのこの考え方に、影響を受けた科学者がいました。彼の名はフランシス・ゴルトンといい、彼は「人類は身体的特質だけでなく、才能や性格も遺伝する」と考えました。彼は1883年に適応能力のある者の出生をうながし、より優れた人間を作り上げようとする科学を「優生学」と呼んだのです。

続いて「適者生存の法則」を、人間社会に当てはめようとする動きが生まれました。「社会において生存競争に適しない弱者はいずれ滅び、競争を勝ち抜ける優秀な強者だけが、子孫を残せる」という考え方で、後に「社会的ダーウィニズム」と呼ばれるようになります。

ついには「不治の病人や障害者には、生きる権利よりも死ぬ権利こそふさわしい」という学説が登場しました。1895年にアドルフ・ヨストが著した『死に対する権利』はその代表的な著作です。ヨストは「不治の病にかかり死が避けられない人や、命の危険はないがひどい苦しみの中にいる人に、死ぬ権利を認めるべき」と訴えました。

さらに彼は、人間の「生きる価値」についても「経済的に何も価値を生まない、社会に負担をかけるばかりで死なせた方がよい」のように話しています。

ヨストの主張は、当初はあまり支持されませんでした。しかし、ドイツの生物学者エルンスト・ヘッケルもまた、著書『生命の不可思議』の中で「精神疾患の患者や不治の病の患者は、本人の周囲にまで苦痛を与える」と唱えたのです。

こうして「価値のある人」と「価値のない人」を区別し「価値のない人」を社会のために死なせてもいいという考え方が、徐々に浸透し始めました。第1次大戦後ドイツの人口と"質"が問題となった1920年代には、この「価値のない人を死なせてもいい」という考え方はさらに加速していったのです。

こうした世情の中、ほんの数年前までは弱小政党であった、ナチス党がドイツの政権を掌握。

ナチスが擁立したアドルフ・ヒトラーが著した『我が闘争』には、ユダヤ人だけでなく、障害者に対する排除意識も見て取れます。彼が総統となったために「価値のない人の社会からの抹殺」が、実現に向けて動き始めてしまったのです。

第2章 障害児の「安楽死」の実施

1939年初頭「クナウアー事件」が発生した。ナチス政権下で最初におこなわれた、障害者の殺害です。

クナウアー事件は、1938年の暮れに障害を持って生まれた子供の父親が、ヒトラーに「奇形児として生まれた子供を安楽死させたい」と手紙を送ったことで始まりました。父親の姓はクナウアーで、子供は生まれつき目が見えておらず、片方の腕と足が未発達な状態でした。

ヒトラーは手紙を読むと、自身の主治医であるカール・ブラントに、子供の主治医と協議してから安楽死させるように命じました。

これを機に、ヒトラーはブラントと総統官房長のフィリップ・ボウラーに対し、同様の案件に対処する権限を与えたのです。ブラントとボウラーは障害児を安楽死させるための委員会を設置し、計画実行のため動きはじめました。

同年8月、委員会により各自治体に「障害児の報告書を提出せよ」と通達がおこなわれました。医師たちは、3歳未満の障害児の報告書を、保健所に提出することを義務づけられました。

報告書の対象となった障害の種類は、ダウン症、小頭症、水頭症、先天的な聴覚および視覚障害、その他身体的、神経的な障害を持って生まれた子供などがあげられます。

提出された報告書は、3人の専門家による審査会で精査が行われた。しかし障害児たちの生死は、なんと報告書の内容だけで決まってしまったのです。

審査会で「殺害相当」と判定された子供たちは、自宅や入所施設からバスに乗せられ、障害児殺害病棟に移送されました。

自宅に住んでいる子供たちを移送するときは、保健当局は保護者に「より良い治療を受けられる施設に移す」と嘘の説明をおこなっていました。ほとんどの保護者は、嘘だと思わずにわが子をゆだねてしまったのです。

ナチスは障害児の安楽死を極秘でおこなおうとしていたが、殺害病棟の近所の住民は、何が起こっているのかうすうす気がづいていたようです。

例えばハダマーに障害児殺害施設が置かれた半年後、施設近辺の子供たちが「お前は頭がおかしいから、そのうちハダマーのオーブンで焼かれるぞ!」とおたがいをからかいあっていたという証言が残っています。

障害児の安楽死は、主にルミナールやモルヒネの投薬でおこなわれました。錠剤を飲みこめない子供には、薬物を心臓に直接注射するという、苦痛を伴う手段が用いられました。後の「分散した安楽死」では、障害児の安楽死の手段として餓死殺を選ぶ施設が多く見受けられたのです。

親たちはわが子の死を、突然届いた手紙で事務的に知らされました。動揺した保護者は、その死の真相を探るために施設をたずねました。しかし、彼らは決まって親衛隊に追い払われ「これ以上調べようとするな」と警告されたのです。

第3章 成人した障害者の「安楽死」

障害児たちを殺害する一方で、1939年7月、ヒトラーは閣僚を招集した。成人の障害者を対象とした、組織的安楽死をおこなうための意見を募るためです。その結果、成人した障害者の安楽死実施のための委員会が、新たに設置されることになりました。

この委員会に集まったのは、有名大学の精神学教授や大病院の院長など、高名な医学者たち。委員会では障害児の安楽死作戦と同様に、障害者の登録方法と、計画を実行する施設の選定が進められたのです。

ナチスはポーランドへの侵攻後、ポーランド領にある精神病院での入院患者抹殺を開始。グダニスク地方のコツボロヴォにあった精神病院が、成人障害者「安楽死」の最初の舞台となったのです。

この時の殺害方法は銃殺であり「安楽死」のイメージとはほど遠いものでした。1939年から1944年までのあいだにコツボロヴォでは2,562人の患者が殺害され、ポーランド全体では1万人以上の障害者が犠牲になったとされています。

1939年9月、委員会は全国の精神病院や収容施設に調査票を送付。調査票提出の対象となるのは労働能力の有無、診断名(知的障害、統合失調症、先天性のてんかん、認知症など)、5年以上の入院期間、犯罪歴の有無です。これらの情報にもとづき、どの障害者を殺すかが検討されました。

ここに明らかなように、調査対象となる基準は診断名だけではなく、労働能力の有無、長期入院者であるか、素行不良があるか、という複数の要素から構成されていたのです。

委員会により「殺害相当」と判断された障害者が暮らす施設では、職員たちが「取り違えが無いように」と、対象となった者に名前を書いたバンソウコウを体に貼りました。

当日、バンソウコウを貼られた障害者達は、殺害施設へ到着後に服を脱ぐよう指示され、医師の診察を受けた。診察後、障害者達はシャワー室に見せかけたガス室に連行され殺害されました。これは、ほとんどの場合医師の手でおこなわれました。

このポーランドでの手法は障害者殺害方法に広く用いられ、1941年からは各地の強制収容所での殺害にも流用されることになりました。

実は、犠牲となった障害者たちのなかには、名前を書いたバンソウコウを体に貼られることがどういうことなのか、すぐに理解する者が多かっようです。

殺害施設は関係者の間で「処理場」と呼ばれ、中には常軌を逸した雰囲気の殺害施設もありました。ある「処理場」ではそこで殺害した1万人目の犠牲者を焼却するとき、全職員で狂ったような喝采をいったというから恐ろしいです。

第4章 T4作戦の中止と「分散した安楽死」3

ナチスは、犠牲者の遺体を街から遠くに設置した焼却炉で処分し、近隣の住民に施設で何がおこなわれているか気付かれないようにしていました。しかし、不審な動きをするバスは、嫌でも住民の目につき、施設付近の住民は、毎日のように障害者を大勢乗せたバスが町をいききすることに、不信感を抱いたようです。

いつも病院から中がからっぽの状態で出てくるバスや、時折街に充満する脂が焦げるような異臭。いつしか人々は「病院で何か恐ろしいことが起こっている」と噂し始めました。

障害児安楽死のときと同様、障害を持つ家族の死を文書で知らされた人々は、突然のことに悲しみ、動揺しました。彼らは辛い思いを教会の神父や牧師に打ち明け、教会にも障害者の不審な死についての話が、次第に広まっていきました。

最終的には「第一次世界大戦に従軍後、後遺症として精神病をわずらった元兵士が、施設で不審死した」という記事が、新聞をにぎわすように。いつしか、従軍後PTSDなどを発症した元兵士も、殺害対象となっていたのです。やがて人々は「私達も何か理由をつけて、国に殺されるのでは」と不安になっていきました。

このような状況の中、1941年8月、フォン・ガーレン司教は、ミュンスターの教区民にこのように語りかけた。

「貧しい人、病人、非生産的な人はいてあたりまえだ。私たちは、他者から生産的であると認められたときだけ、生きる権利があるというのか。もし人間に『非生産的なものは殺してもよい』という原則を適用するならば、我々も老いて弱ったときに殺されるはずだ」

この説教が行われた10日後、リンブルクのある司教は、法務大臣に「無力な人たちの絶滅は、無分別な不正である」と抗議文書を送ったのです。

ナチス当局は当初、抗議者を処罰することでT4作戦の噂をもみ消そうとした。しかし、フォン・ガーレン司教の説教がおこなわれたころには、人々の不安はピークに達しており、 ついに親衛隊トップのハインリヒ・ヒムラーが、「殺害施設の運営を中止するべき」とヒトラーに警告しました。

ヒトラーは国民からの支持を失ったり、兵士が上層部を疑うことで士気が下がることを恐れたのか、1941年8月24日にT4作戦の停止を命じました。

ところが、障害者殺害は停止命令が下された後も終わらなかったのです。ナチス・ドイツ占領下の地域で散発した医療的殺害は「分散した安楽死」と呼ばれるようになります。

虐殺が続いたのは、爆撃被害で発生した傷病者を入院させるため、入院中の患者を殺害して場所をあけるためという理由が多いです。つまり健常者の救命のために、保護の順位が低い精神障害者や知的障害者が、犠牲を強いられたのです。

T4作戦では委員会の審議のもとに安楽死対象者を選別し、殺害していました。しかし「分散した安楽死」と呼ばれた状況下で、殺害する精神病患者や障害者を選別し、実際に殺害するのは各病院の医師たちです。

中には「患者が持っているスーツが欲しい」という欲求を抑えられなかった看護師の独断による、精神病患者の殺害も発生しています。

医療現場での障害者殺害は、ドイツが無条件降伏するまで続けられたのです。

第6章 過去の克服

1946年に始まったのが、T4作戦の関係者を裁く「ニュルンベルク医師裁判」です。23名の被告人の中には、ヒトラーの主治医カール・ブラント、総統官房所属のヴィクター・ブラック、そして総統官房長のフィリップ・ボウラーら3名も含まれていました。

結論からいうと、この裁判ではブラント、ブラック、ボウラーの3名全員が死刑判決を受け、10名の被告人が終身刑を含む懲役刑の判決を受けた。裁判において、ブラントら3人の自己弁護は、非常に見苦しいものでした。

例えばブラックはT4作戦の目的を説明した後「狂った人間が生きることは、本人とその家族にとって、痛みだけが残される」「生きる価値のない者を地獄から解放するのは、医者としての義務」といい放っています。

ここからはドイツで、T4作戦の悲劇の記憶がどのように扱われたのかを、見ていきたいと思います。

終戦から1960年代までは「安楽死」を思い出させるような歴史的な証拠が撤去され続けていました。特に1950年代からは、ガス室のある建物が次々と取り壊されてしまったのです。

多くの障害者を虐殺した記憶を、残そうとする試みがなかったわけではない。例えばハダマーでは1953年、当時の殺害施設の入り口に、犠牲者追悼のためのレリーフが設置されました。しかしそのレリーフには、ここで何が起こったのかという説明は付されていなかったのです。

1970年代末頃からナチス体制下の医学に関する研究が開始され、犠牲者をいたむだけでなく、当時何が起こったのか調査し、広く伝えようとする取り組みが起こりました。

1980年代から2010年代にかけて、常設展示などを備えた上で、かつての殺害施設は順次公開されていきました。この動きを主導したのは、各施設の近隣に住む学生や、施設職員などの市民です。

そしてついに2010年11月、ベルリンにおいてある式典が執り行われ「ドイツ精神医学・精神療法・精神身体医学・神経学会」が年次総会の一環として、ナチス精神医学のもとに迫害された人々に対する追悼式典を開催したのです。

学会会長のフランク・シュナイダーは式典での講演で「われわれ精神科医は、ナチの時代に自分たちを信じてきた患者の信頼を裏切り、患者を強制断種し、死にいたらせ、自らも手にかけた」と述べました。

ヨーロッパ最大の医学会が、公式に「障害者の安楽死」について医師の責任を認め、謝罪をいったのです。

ドイツではナチ体制下で行われた非人道的犯罪に対する謝罪や補償、歴史教育などの取り組みは「過去の克服」と総称されています。しかし、障害者に対する迫害については、まだ十分に研究されているとはいえません。

現在でも犠牲者遺族からは「他のナチ犯罪の犠牲者集団とT4作戦における犠牲者集団は、同等に扱われていない」という非難の声が上がっています。ナチスによる障害者安楽死は、今なお解決されていない課題なのです。

まとめ T4作戦は他人事ではない

日本では2015年に前述したシュナイダー会長が招かれ、「ナチズム下の精神医学」と題した講演が行われたほか、2019年には東京で、障害者の強制断種や殺害の過去を伝えるための展示会が開催されました。

T4作戦についての研究は日本でもおこわれていますが、実態はホロコーストほど知られていません。

しかし、実は日本でも1948年から1996年まで優生保護法が定められていました。これにより、少なくとも1万人以上の障害者などが、断種手術を強制的に受けさせられました。日本もまた、優生思想に強い影響を受けていたのです。

残念なことに、現在においても断種手術を正当化したり、障害者は生産性に欠けるという意見は無くならりません。断種手術については、知的障害や精神障害を持つ女性について不妊手術もやむなしという意見を見かけます。

具体的には「女性の知的障害・精神障害者は、性加害されやすい。もし強姦で妊娠したら、子供を育てられるのか。不妊手術をしておけば、本人も周囲も楽になるだろう」という意見である。

いかにも親切心から出た意見に見えますが、そもそも被害を訴えにくい特性を持つ女性障害者に付け込んで、性加害をおこなう加害者の存在の方が、余程問題ではないでしょうか。

障害者の生産性については、聴覚障害を持つ少女が交通事故死した事件における、現在も係争中の裁判を例にあげたいと思います。被告は原告である少女の遺族に対し「少女には聴覚障害があるので、就職するのも難しい。逸失利益については、健常者女性の4割の収入に算定すべき」と主張。遺族は「障害があるからと、未来を勝手に決めつける。これは障害者差別だ」と反発しました。

原告の主張が報じられると「差別ではなく区別」「障害者なんだから、そんなに賃金を貰えないだろう」というネガティブなコメントが寄せられました。その後被告側は一部主張を撤回したが、それでも「全労働者の6割の収入による金額で算定すべき」と主張しています。

この障害者に対する差別意識の問題は、障害者だけの問題だけではありません。これから生まれてくる命ふくめ、人類すべての問題です。なぜなら、健常者として生まれてくるのも障害者として生まれてくるのも、障害や疾患によっては遺伝しやすい傾向があっても「たまたま」でしかありません。

もう1つ付け加えると、たとえ健常者として生まれても、事故や病気で後天的な障害を持つ可能性が全くないとはいえない。

したがって「健常者だから別にT4作戦の事も知らなくていいし、また同じことが起こっても、自分には関係ない」とはいい切れないのです。

「国家主導で虐殺が起こることなど、今後絶対にない」と思う方もいるでしょうが、第2次世界大戦後でも国家主導での虐殺はおこなわれています。1990年代にアフリカのルワンダでおきた、ツチ族および穏健派のフツ族をターゲットとした虐殺が、その最たるものです。

「ルワンダの虐殺は、独裁状態の軍部が起こした。独裁政権など日本では起こらないから有りえない」と反論されるかもしれません。この世界に最高権力者による独裁状態が続く国がある以上、日本が独裁体制にならないとはいえません。

また、2022年7月、NHK党の立花代表は「質の悪い子供を増やさず、納税する優秀な子を増やすべき」と発言。その他、過去には自民党の杉田水脈氏の「LGBTのカップルには生産性がない」という発言が物議をかもしました。

このように、いまだに優生思想や生産性に影響された政治家がいます。もしこうした政治家が独裁者となり、今も続く「障害者やLGBTは生産性に欠ける」という意識が変わらなければ、日本でもT4作戦のような悲劇が起きる可能性はあります。

そしてその時、あなたに身の安全が保障されるかどうかは、定かではありません。

フォン・ガーレン司教の「私たちは、他者から生産的であると認められたときだけ、生きる権利があるというのか」という問いかけに、私達がどう答えるのか、試されていると強く感じている今日このごろです。


スザンヌ・E・エヴァンス著 黒田学 清水貞夫監訳「障害者の安楽死計画とホロコースト」クリエイツかもがわ

小俣和一郎著「精神医学とナチズム」講談社現代新書

中野智世、木畑和子、梅原秀元、紀愛子著「価値を否定された人々:ナチス・ドイツの強制断種と『安楽死』」新評論

【聴覚障害11歳事故死 逸失利益に差、被告側主張に父「差別」】
https://news.yahoo.co.jp/

オランプ

オランプ

長年にわたってうつ病で苦しみながらも病気を隠して働き続け、40歳になる前にやっと病気をオープンにして就労したものの生きることのしんどさや職場でのトラブルは軽減されず。実はうつ病の裏に隠れていたものはADHDであり、更に気が付けばうつ病も病名が双極性障害に変化。これだけ色々発覚したので、そろそろ一周回って面白い才能の1つでも発見されないかなーと思っているお気楽なアラフォー。
実は自分自身をモデルにして小説を書いてみたいけど勇気がない。

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