「視界にないので知りませんでした」はもう通らない
暮らしPhoto by D A V I D S O N L U N A on Unsplash
先日、図解付きでこのような文言がバズってきました。「陽キャと陰キャの領域は、男性と女性で視点が違う」「男性視点の陽キャは、女性視点だとその中で更に陽キャと陰キャに分かれる」「男性視点の陰キャは、女性にとっては視界にすら入らない」
元画像は性差を一方的に説いたもので、男性の視界にすら入らない女性が何なのかは論じられていませんが、性別間のポジショントークは置いておくとして「視界にないものへの想像力」が求められているのは確かです。このネット社会では実に多種多様な立場の人間が可視化されていますので。
社会には様々な不公正や不平等がありますが、視野になければ気付くことがありません。仮に気付いたとしても無視できますし、それで不公平の維持や再生産を無意識にやっているばかりか、利益を得ることすらあります。そして、大抵の人は不平等による不利益を被ったときに初めて知覚し無視できなくなります。
救えない話ですが、これは誰にでも当てはまります。人間はあまりに多くの情報を詰め込み過ぎると心理的に壊れてしまうので、無意識に選別するフィルターのようなものがあるからです。だからといって「視界にないものへの想像力」が乏しくても許されることにはなりません。
身内に知的や発達障害のある人は時々「昔からこういう子は一定数いた」という謎の励ましを頂戴することがあります。では、どうして「こういう子」で記憶が止まっているのでしょうか。なぜ「こういう子」だった身近な大人の話が出来ないのでしょうか。「こういう子」が社会の要所で爪弾きにされ、健常者の視界からもいなくなったと、想像力を働かせることは出来ますか。
視界の外にいる人々は、見えないながらも確実に社会の中で感情を持って息づいています。「透明化」で無視は出来ても、その存在自体を抹消することは出来ません。「視界にないものへの想像力」に乏しい者は、このネット社会で可視化された「知らない弱者」の声に苛立ち、しばしば「キモい奴が私の見える範囲で騒いでいる!」と被害者感情むき出しで逆ギレしています。