主張するマイノリティーに向けられる「もっとうまくやれ」。この奇妙な意見を解体する。
出典:Photo by Hisae Kuroda on Unsplash
SNSはこれまで発言する場をえられなかったマイノリティーに発言の機会を与える場でもあり、同じ障害や属性を持った仲間と繋がれる場でもあり、心無い差別や偏見が垂れ流される場でもあります。
ネットの書き込みなんて気にしなければよいで済めばよいのですが、それもなかなか難しいことです。気楽に楽しんでいたところに不意に差別的な書き込みが目に入ることも珍しくない事でしょう。
マイノリティー側の処世術として差別的な書き込みに出くわす頻度を減らすこともできます。もっといえばSNSから離れてしまえば、差別的な書き込みに出くわさなくて済むかもしれません。
ですが、これはおかしなはなしです。これでは、差別という不当な行為のためにマイノリティーがいらぬ努力をしいられ、社会の一部から排除されることと同義ではないでしょうか。
このコラムではネットで散見される「おかしな意見」の一例を挙げ、その意見のどこがどうおかしいのかを分析し、読者のみなさんとシェアしたいと思います。
差別に対抗する取り組みは、分かりやすく効果が出ることは少ないかもしれませんが、それでも粘り強く、時には休みながらでも続けていくしかありません。
マイノリティーに向けられる「もっとうまくやれ」の声
何かを主張するマイノリティーに対して向けられる無理解な意見の中に「もっとうまくやれ」というものがあります。嘲笑まじりの嫌がらせとして発せられるものもあれば、アドバイスとして発せられるものもあるようですが、このような反射的な言葉はどちらにせよマイノリティーにとっては大きなプレッシャーとなる言葉です。
まずはアドバイスとしての「もっとうまくやれ」についてとりあげましょう。もちろん上手くやった方が効果を見込めるのは確かではありますが、果たして当事者でない人の思いつき程度のアドバイスが、当事者にとって価値のあるものになるでしょうか。いや、ならないでしょう。
マジョリティーの多くはマイノリティーが直面する問題について無知であり、何かを判断したり査定したりするための基本的な正しい知識が欠落しているからです。
「もっとうまくやろう」はマイノリティーが自分の意思で、余裕があるときに、自分の判断で考慮すればよいもので、当事者でない人が出鱈目に押しつけていいものではありません。
アドバイスよりも当然問題なのは嘲笑まじりの「もっとうまくやれ」です。そもそも、マイノリティーが何かを主張した際に、なぜこうも拒否反応がおこるのでしょうか。
それはまずひとつには、マイノリティーの主張が、マジョリティーが素直に順応し慣れ親しんでいる常識に対する「NO」であることが多いからでしょう。
少し遠回りする話になりますが、日本の教育を受けて育った人の多くは「NO」をいわれ慣れていないのではないでしょうか。
わたしはテレビの教育特集番組で知った程度なのですが、多くの先進国では初等教育から「NO」をいう訓練をするようです。それは何も交通訓練のような限られた時間の中だけでの話ではなく、生徒が「NO」をいうことが前提で学校生活が営まれていて、学校生活の日々が「NO」という訓練の場であるらしいのです。
言い方を変えれば、はっきりと「NO」をいう文化で育った人間であっても、はっきりと「NO」をいえるようになるには、小さいときからの訓練が必要なのです。
詳しい経緯は知りませんが、これは第二次大戦時のファシズムをドイツやイタリアや日本という限られた国の話ではなく、広く民主主義国家が陥る罠として反省したことと無関係ではないでしょう。
一方、日本の公教育の場では「YES」の訓練は嫌になるほど、しつこくやりますが「NO」の訓練はしていないに等しいのではないでしょうか。
私たちの多くは必要な訓練を受けていないのですから、いざ必要なときに「NO」というだけでも大変なことなのです。そこにさらに上手くやれと注文をつけるのは酷な話です。
「NO」といい慣れていない文化であるということは「NO」といわれ慣れていない文化であるということでもあります。
残念ながら、今の日本には声高に「NO」を訴えることをおかしなこととして扱う風潮があります。民主主義は市民が議論をすることで成り立つ仕組みになっています。同じ国に暮らす市民といっても見えている景色も価値観も様々です。議論をすれば「YES」も出てくれば「NO」も出てくるのが当たり前です。声高に「NO」をいうことは議論の必然であり、なにもおかしなことではないはずです。
「NO」をいわれる訓練をしていないのだから、上手く受け止められなくても当然ではあります。しかし、当然何かを訴えるとき、そこには切実な事情がある場合がほとんどなので「これは仕方ない」では済まされない問題です。
たとえ上手く受け止められなくとも、とりあえずは受けとめようとすることが大切なのではないでしょうか。
求められる創造力
見識のある方ならば、何かを訴える人に「もっとうまくやれ」とはなかなかいいにくいのではないでしょうか。なぜなら、そこにいたるまでの苦労を想像できるからです。
つらい思いをしてきた人とそうでもない人とでは社会の見え方が違います。例えば、多くの人達は朝電車に乗るとき、隣にいる人がいきなり自分を攻撃してくるかもしれないとおびえて過ごさないでしょう。これは、意識的かどうかは置いといて、ある程度は社会を信頼しているからです。
しかし、生きてきた中で非常に辛い経験をされた方はそうではありません。程度が著しい事例を挙げますと、戦場で悲惨な体験をしてPTSDを患った元兵士は、社会を信頼する感覚を大幅に欠いてしまう方が多いらしいです。
たとえ元兵士の体験と同等までいかなくとも、マイノリティーは社会のなかで辛い扱いを受けることが多いです。
見た目に目立って特性があらわれる方は、多かれ少なかれ好奇の目にさらされます。そこまで露骨でなくとも奇異の目に晒されることもあります。障害が見た目でわからない人でも、自分の特性がふとした行動にあらわれてしまわないか、怯えながら過ごしている人も少なくないでしょう。これは他人には見えにくい小さな攻撃に日々晒されているのと同じことです。
いやそんなの気にせず、堂々とオープンにして楽しく生きているよというマイノリティーの方もいらっしゃるでしょうし、それはそれで素晴らしいことなのですが、それでもそうではない方も多くいることは変わらないでしょう。
このようなストレスフルな状況に長く晒されている人にとっては、社会を信頼することですら難しいことになってしまいがちです。もちろんこれは個人によって経験が違うことですので、あくまでマイノリティーはそうなりやすい環境に置かれがちだということです。これは、個人の能力の問題ではなく、マイノリティーを取り巻く環境の問題です。
マジョリティーであっても何かを主張するということはなかなかしんどいものですが、マイノリティーの場合は今言及したようなことが障壁となって、しんどさがさらに強いものになります。
つまり、マイノリティーの方が何かを主張するときに、その方が意識してかせずかに関わらず、マジョリティーには見えにくい障壁を乗り越えてから、主張を振り絞っている場合が多いのです。
話を戻しますが、見識のある人ならばこの障壁を想像できるからこそ、軽率に「もっとうまくやれ」といわないのです。
キャッチボールのはずが……
そもそもなぜ「もっとうまくやれ」のように、主張の中身ではなく、主張のやり方に焦点が当たった反応が返ってくるのでしょうか?何かを主張している人は、当然ながらその主張の中身を受けとめて欲しいのです。主張する際のふるまいを査定して、正してほしいのではない場合がほとんどです。
マイノリティーが何かを主張するとき、なにも虚空に向けて主張するわけではありません。
その主張が特定の誰かにむけられていようが不特定多数にむけられていようが、相手の顔が見えていようがいまいが、そこには必ず相手側、つまり受け手がいるのです。
主張といいましてもコミュニケーションなのでこれは必然の事と思います。マイノリティーが公で主張するとき、そこには受け手がいます。
そこに向けられる言葉が一方的な「もっとうまくやれ」ではあんまりではないでしょうか?
キャッチボールに例えるならば、片方が受け止めてくれることを期待して投げたボールをもう片方が受けとめず見送り、足元にコロコロと地面に転がるボールを見ながら顎に手をあてて「ふぅむ……、もっとうまく投げられないものですかねぇ、こんなのじゃあ受ける気にもなりませんよ」と困り顔をしているようなものです。これはなんとも滑稽な光景です。
これは受け手に当事者意識が欠けているからではないでしょうか。マイノリティーかマジョリティーかではなく、社会をつくりあげる市民としての当事者意識です。
社会とは、マイノリティーであるかマジョリティーであるかに関係なく、その社会で暮らす人々が一緒に協力して作り上げ、維持し、改善していくべきものです。マイノリティーの主張の多くは社会設計に関わるものですが、社会を作るのはマイノリティーだけの役割ではありません。
それを主張するマイノリティーにだけ責任があるように振る舞うのは責任転嫁です。マイノリティーが何かを主張するとき、試されているのは主張を受けとめる側の市民としての当事者意識ではないでしょうか。
おわりに
いかがでしたでしょうか?いたらないながらも、おかしな意見のおかしさを3つほど指摘させていただきましたが、賢明な読者の方々でしたらもっと思い付くのかもしれません。また、おかしな意見の一例として挙げた「もっとうまくやれ」ですが、「もっとうまくやれ」という文言そのままでなくても、似たような意見は世の中に沢山あるように思います。
人間は、たとえおかしな意見であっても大勢に強くいわれると「そうなのかも」と思ってしまいがちです。これはどんなに強く自分を持った人でもそうならないとはいえないように思います。
巷にあふれるおかしな意見を、やっぱりおかしな意見だよねと確認しあうのも、大切なことではないでしょうか。
実際に何かを主張して「もっとうまくやれ」と責め立てられ、傷ついた経験のあるマイノリティーの方もいらっしゃるのではないでしょうか。
おかしなのはあなたではなく「もっとうまくやれ」と軽率に言い放った方です。どうかご自分を責めないであげてください。
日々、おかしな意見に出くわし、もやもやしている方が、本コラムを読んで少しでも楽になっていただければ幸いです。