全日空61便ハイジャック事件~世紀末の航空事件と“神輿”になれなかった男の生い立ち
暮らし航空業界と精神疾患の関係といえば、「機長(キャプテン)、やめてください!」で知られる「日本航空350便墜落事故」がよく挙げられます。これは統合失調症の病識が不十分だった機長による事故で、機長の実名や「逆噴射」が精神疾患を揶揄する言葉として一度は広まりました。
実はもう一つ、航空業界と精神疾患が絡み合った事件があります。1999年7月23日に起こった「全日空61便ハイジャック事件」です。日本のハイジャックで初めて死者を出したと言われるこの事件は、犯人の生い立ちや精神疾患についても記録に残されています。
全日空61便の事件が遺した爪痕は決して小さくなく、様々な安全対策が見直されるきっかけとなり、犠牲者の命日には毎年黙祷が捧げられています。一方で、これほどのハイジャック事件と犯人が、アンチ発達障害やアンチ精神疾患にとって「神輿」となることはありませんでした。なっても困りますが、犯人には「その手の人」を興奮させる要素が幾つかあったのです。
警備の穴を突く
1999年7月23日、北川健一(仮名・当時28歳)は羽田空港から、全日空61便の機内へ包丁とペティナイフを隠し持ったまま搭乗しました。当時の羽田空港の警備には穴があり、北川は偽名を用いたり伊丹空港と往復したりと巧妙な手口で刃物を機内へ持ち込むことに成功しています。とても用意周到なハイジャック犯です。
離陸からほどなくしてハイジャックを実行した北川はコックピットへ侵入、副操縦士を追い出し機長と二人きりの状況になります。北川は機長を脅しながら、高度を3000フィート(約900メートル)に下げるよう要求しました。これはジャンボ機にとってあまりにも危険な低空飛行で、伊豆大島を飛んでいた別の小型機からは「自分達より低い所を飛ぶジャンボ機を見かけた」という証言まで飛び出したそうです。
やがて北川は機長を刺し、自分一人で操縦桿を握ります。素人に操縦できるはずもなく、滅茶苦茶な飛行の末に一時は200メートルにまで高度が下がりました。副操縦士とデッドヘッドクルー(移動や非番の為に乗り合わせていた航空関係者)らは体当たりで扉をぶち破り、どうにか北川を取り押さえます。乗り合わせていた非番の機長によって機体は安定を取り戻し、羽田空港へ緊急着陸したことで一連の事件は終息しました。
機長は3か所を刺されており、乗り合わせていた医師によりその場で死亡が確認されました。しかし、死の間際にオートパイロットを作動させており、これが墜落を回避する要因となりました。もしオートパイロットがなければ、墜落先は八王子市内の住宅街、あの日本航空123便の墜落事故を上回る大惨事になっていたとされています。機長は死後、ポラリス賞・勲四等瑞宝章・内閣総理大臣顕彰・運輸大臣表彰が捧げられたほか、労災認定も下りるなど手厚く葬られました。
逮捕された北川は、ハイジャックの動機についてこう語りました。「羽田空港の警備の穴を自ら証明したかった」「飛行機でレインボーブリッジをくぐってみたかった」「目的を果たしたら、持参した包丁で自殺するつもりだった」
実は、北川が犯行予定日としていたのは前日の22日でした。実行が1日遅れた理由は、「北海道へ旅行に行く」と偽って出ようとしたのを“ある事情”で家族らに止められたからです。
内向的で友達は少なく…
北川は幼少期から内向的な性格をしており、コミュニケーション能力に難がありました。学校には通い続けたものの、しょっちゅういじめの対象になっており、一人遊びで無聊を慰めていたそうです。そんな北川が最初に興味を示したのは「鉄道」でした。
勉強の成績はよかったのか、北川は中学からは名門私立の一貫校に通い始めます。そこでは友達も出来、一緒に鉄道旅行をする程の仲を築きました。大学は一浪しつつも一橋大学へ進学しますが、、また一人きりとなります。大学時代の北川は、航空貨物のバイトに精を出し、卒業論文も航空関連で乗り切り、興味は航空機へと移っていったようです。
航空業界への就職を夢見る北川でしたが、いずれも不採用。鉄道業界に針路を切り替え、JR貨物の総合職として就職しますが、内向的でコミュ障のうえ仕事のミスも多い北川の評価は芳しくありませんでした。寮生活や単身赴任による精神の不調や、幹部候補生でない事への不満が積もり、入社から2年半で北川は無断欠勤の末に退職しました。
その後、3度の自殺未遂を経て実家に戻ってきた北川は精神科を受診し、統合失調症や心因反応の診断を受けます。投薬を受けたそばから、また自殺未遂をしたため、今度は2か月の措置入院を受ける羽目になりました。北川の遺書には「よりよい社会を実現するためには、効率の悪い労働者を淘汰せねばならない。引く時には引かせてもらう」といった文言が書いてありました。
無茶な投薬とフライトシミュレーター
措置入院から帰ってきた北川は、パソコンゲームのフライトシミュレーターにのめり込みました。シミュレーター内ではジャンボ機でレインボーブリッジの下を潜るという芸当をやってのけ、やがて「フライトシミュレーターがこんなに上手いのだから、現実の旅客機も上手に動かせる筈」と考えるようになります。
90年代だてらにインターネットも触り続けていた北川は、ひょんなことから羽田空港が警備上の欠陥を抱えていることを突き止めました。手荷物検査を通らず搭乗できると実際に確認した北川は、全日空をはじめとした関係各所に手紙を送ります。手紙では欠陥の指摘だけでなく、自分を警備担当者として採用する要求もしていたそうです。
とはいえ、北川に良い反応は返ってきませんでした。これに不満を抱いた北川は、警備の欠陥を証明するだけでなく、旅客機を乗っ取った挙句に自殺するため、ハイジャックの計画を立て始め、やがて事件に至ります。
実行予定日に7月22日が選ばれた理由は、気象情報からその日が好天であると踏んだためで、本気で旅客機を操縦するつもりだったことが窺えます。しかし、一度家族に止められたことで実行が1日遅れました。突然「北海道旅行をする」と言い出したうえに、包丁などの入った鞄を怪しまれたからです。
それでも北川は止まらず、鞄を強引に持ち出して羽田空港へ向かいました。家族は事前に刃物類だけを抜き取っていましたが、途中で気づいて金物屋で買い直したため犯行に影響はなかったそうです。トラブルへの対処やリカバリーが初犯離れしており、就職先で愚鈍として扱われていたのが嘘のようですね。
北川を事件に駆り立てたのは、精神科から処方された薬に原因があるとも言われています。処方された抗うつ剤などは多種多様で、中には日本で認可されていない薬まで含まれていました。この滅茶苦茶な投薬によって、躁鬱の混合、希死念慮の高まり、攻撃性の増加などを起こし、緻密な犯行計画と横暴な犯行態様が同居する事態となりました。
裁判の途中では何度か精神鑑定が行われ、ついでに「アスペルガー症候群」の診断まで追加されました。2005年3月、北川に下った判決は無期懲役。これは求刑通りで、検察側も北川の精神状態から死刑の求刑を諦めていたようです。
神輿になれなかった男
幼い頃から内向的で友達が少なく、少年時代は鉄道マニア(後に航空機マニアに転向)で、社会人時代に精神疾患となり、事件前にはゲームと現実を混同し、裁判中に発達障害の診断が下りる、そんな数多くの要素を北川は持っていました。なぜ、これほどの男が「神輿」として、アンチ発達障害やアンチ精神疾患などに担がれなかったのでしょうか。
逆に考えると、なぜ宮崎勤や植松聖は「神輿」になれたのでしょうか。宮崎は事件へ、植松は本人へと担ぐ対象は異なっていますが、二人はマスコミから長く興味を持たれたことによって「キャラ」が定着したのではないかと考えます。長い報道によって、宮崎は「ロリコンおたくキャラ」が、植松は「障害者ヘイトキャラ」が定着していきました。少なくとも宮崎の方は事実と違っていたようですが、キャッチーな虚構が受け入れられて久しいので、これからも「キャラ」を崩すことはないでしょう。
対して全日空61便のハイジャック事件は、さほど報道が長引かなかったように感じます。犯人の年代が、酒鬼薔薇や西鉄バスジャックに比べて一回り上だったのがマスコミの興味を削いだのでしょうか。少なくとも当時は「ゲームと現実を混同」というだけでも強力な材料だった筈ですが、彼はアンチテレビゲームにすら見向きされませんでした。兎も角、彼は報道の中で決まった「キャラ」を持たされなかったのでしょう。
また、判決が無期懲役だったことも一因と思われます。死刑囚には、稀に熱狂的なファンが発生するほどのカリスマ性が付与されるようで、「自分は非モテ」と言っていた加藤智大さえも女性ファンがついたと言われています。「死刑になっていれば」という話ではありませんが、無期懲役囚がそういうインパクトに欠けているのは確かです。
自らの差別的主張を正当化させるために過去の凶悪な事件や犯人を「神輿」として担ぐ者は一定数います。そんな人々を興奮させる要素を数多く持ったハイジャック殺人犯は、誰に担がれるでもなく今も塀の向こうで無期刑に服しています。
参考サイト
全日空61便ハイジャック事件犯人の現在!生い立ちと経歴(実名あり)
https://ameblo.jp
機長を殺害したハイジャック犯にみる薬の副作用と刑事責任能力
https://bunshun.jp
精神障害 発達障害