レイシストにレイシストと呼べば誹謗中傷になるのか
暮らしPhoto by GMB Fitness on Unsplash
以前、「“子供部屋おじさん”の書き込みで開示請求が通った」という話を掲載しました。文脈などから誹謗中傷と判断された話です。この報せに、応援する声や内心怯えながらの嫌味といった数多くの感想が寄せられていましたね。
ですが、絶大な力というものは本来、誰のものでもない筈です。独り占めなど出来る道理もなく、自分に牙を剥くことも十分あり得るでしょう。つまり、あの時内心怯えながら嫌味を飛ばしていた、普段「チー牛」「ガイジ」「弱者男性」を連発している輩によって、逆に開示請求されてしまうケースも起こるかもしれないのです。
確かにおかしい話ではあります。例えば、ゴリゴリの障害者ヘイトに対して「お前は植松か」と植松聖になぞらえることが誹謗中傷になりうる訳ですからね。崇拝する対象に例えられるのはこの上ない栄誉である筈なのに、何が不満なのでしょうか。
「どこからどう見てもレイシストにしか見えない者ほど、レイシストだと指摘すると怒り狂う」という俗説があります。自己の内にある差別思想や選民主義を突かれたのが相当痛かったのでしょう。自分が言われたくないことよりも、相手が言われたくないであろうことの方が悪口としてはよく効くとも言いますし。
不吉な憶測に過ぎない話ばかりしていますが、被害者意識の強い人ほど攻撃性もまた強いというのは私が物心ついた頃からあらゆる場面で体験してきた経験則です。真理と言ってもいいかもしれません。自分が被害者だと思い込めば、加害行為はより過激化します。いじめの現場だって、加害集団が被害者から不快感を与えられたと説明し、それに愚鈍な教師は丸め込まれて「お前にも原因が~」「謝ったからこれで仲直り~」などと言い出すではありませんか。
あと、疾患者であろうと非疾患者であろうと、攻撃的な人の持つ被害者意識の強さそのものは変わらないと思うのですよ。寧ろ、的確なベクトルで「ぴえん」してくる非疾患者の方が狡猾ですらあります。都合よく被害者意識を出し入れする“加減”こそ、疾患者には難しいでしょうし。
兎に角、出る所へ出られるのは悪口を言う側も同じだという話です。ポリコレ棒やキャンセルカルチャー等と一緒で、いつまでも自分が殴れる側で居られる都合の良いシステムなど存在しません。それを理解していないと、「キモオタどもからキャンセルカルチャーを取り戻す」などと恥ずかしい宣言を大真面目にしてしまう大人が誕生します。