「あなた一人を不快にさせたこと」だけ謝る練習をしよう
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ASDの方は往々にして正論なら無条件で通じると信じ込んでいる節があり、定型からは他人のコンプレックスを容赦なく突くデリカシーの欠片もないサディストとして扱われることがあります。正論というのは、自分が言われたときにこそ分かるんですが、咀嚼して折り合いをつけるのに下手をすれば年単位かかるほどキツいのが実態で、それは一種のトラウマにもなり得るようです。そしてASDの方は悩みます。正しいことを言った自分がなぜ悪者扱いされるのかと。相手の非を突いたことでなぜ自分が謝らねばならないのだと。
「自分に非がなくても謝らねばならないときがある。それは『相手を不快にさせた時』だ」と誰かが言いました。相手が不快に思ったらとりあえず謝るというのは、なんとなく窮屈な響きですよね。顔を見せただけで不快だと言われても謝らねばならないのは確かに理不尽です。しかし、この格言にはトリックがあります。別に許しを得る必要もなければ、表面だけの謝罪でも十分だということです。そもそも、相手を宥めて場を収めるためのテクニックでもある訳ですし。
ここはラインを引きましょう。すなわち、「相手を不快にさせたこと」だけを謝ることです。正論を突きつけたこと、空気を読まなかったこと、そして自分が生きていることまで謝る道理はありません。謝るべき相手が一人であることは、相手がどれだけ主語を広げても対象は一人しかいないという意味でもあります。集団で来たとしても、その集団の意見でしかありません。
そして不快の対義語は快であり、これらは感情の中でも原初の領域にあります。未分化の不快とは赤ん坊の癇癪と大差ありません。そういう時は相手を宥めて場を収めるほうが大事なことが多いです。余裕のない人間は人の話を聞いてくれませんからね。矛を収めるか逆に踏み込んでくるかは完全に相手次第ですが、責任を負うのは相手側です。とりあえず謝るというのは逆に相手の人間性を炙り出す行動でもある訳ですね。
昔の集団運営は、怒り出すメンバーが居たら全力で宥めて丸く収めるのを善しとしてきました。しかし、理不尽に怒り出すことを許しているわけではありません。それでも「関係性の負債」は徐々に溜まっており、そのうち腫物扱いされるでしょう。最後に正しいのが誰なのかはいずれ分かるので、「あなた一人を不快にさせたこと」だけを謝る練習というのは進めておいたほうがいいかも知れません。そして、逆にそう謝られたときは自分の言動を振り返るといいかも知れません。


