発達障害の診断が増えたのは、周囲の人々に「逃げ道」が出来たからだ

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高校時代にある教諭が、金八先生からの引用と前置きして言ったことを覚えています。「君たちの目の前には多くの道(進路)が広がっている。しかし後ろにある道はひとつ、“逃げ道”しかない」と。

不定期的に「最近は発達障害の診断が下る児童が増えた」と嘆かれ、これに反医療や反知性の界隈が乗っかり、最後に「確固とした診断基準が出来たからだよ!」と諭されて落ち着く流れが、ネット言論では何度も何度も繰り返されてきました。現実に診断数は増えていますし、基準が固まったのが主因でもあるのですが、その因果を語る間に大量の異物が混入して話をややこしくしています。

ですが、私は敢えて異説を唱えます。発達障害の診断が増えたのは、教師やクラスメイトといった周囲の人々から“堪え性”がなくなり、“逃げ道”が出来たからであると。

そもそも発達障害を“障害”たらしめるのは、周囲との関係性です。傾向があっても周囲との関係性が壊れず良好であれば、それは“障害”にならず診断の必要もありません。逆に軽微なグレーゾーンでも、周囲の定型がヒステリックなまでに拒否するようなら“障害”となります。後者は診断が下りませんけれども。

知識も診断基準も不十分だった昔は、「多少変わった人」としてなんだかんだ受け容れられていました。高齢になって診断を受けた「シニア発達障害」も、若い頃は社会の一員として迎えられていた訳です。(たとえ渋々と消極的にだったとしても)

それが今は、発達障害についての知識が“中途半端に”広がりました。中途半端な付け焼き刃の知識で発達障害を語る“知ったかぶり”が激増した訳です。そして、診断を受けさせるという“逃げ道”も整備されました。結果、“はみ出し者”への耐性が殊更低い教師もクラスメイトが腐心するのは、如何にクラスから追い出して均衡を保つかだけとなりました。

発達の傾向がある子がクラスの一員としてどのように輝くかは、実に様々な形があります。しかし、診断を受けさせてあわよくば支援学級へポイ、で通れる道は“逃げ道”しかありません。ここで最初の話に繋がりました。

更に、この“逃げ道”はただの逃げ道ではありません。安易に支援学級へ送ることにより、当事者の将来も著しく狭まってしまいます。面倒事から逃げ出した挙句、教え子の将来の選択肢まで削ぎ落とすような蛮行は、教職以前に大人として許される行為ではありません。しかし現実の教職員というのは、そういう自分本位な判断を容易に下す手合いが大半です。

それにしても、知識や判断基準が不十分だった頃の方がコミュニティの一員として受け容れられやすかったというのは皮肉な話です。ただ、そんな前時代でも「変わった子が許せない!」という信条の教職員は存在しており、児童相談所で診断を受けるよう保護者に命令する者までいました。時代が進むと、「変わった子を許すな!はみ出し者を許すな!」という意識が逆に主流となったのもまたおかしな話ですね。

遥けき博愛の郷

遥けき博愛の郷

大学4年の時に就活うつとなり、紆余曲折を経て自閉症スペクトラムと診断される。書く話題のきっかけは大体Twitterというぐらいのツイ廃。最近の悩みはデレステのLv26譜面から詰まっていること。

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