私がうつ病になるまで(後編)~完璧主義による負のスパイラル
うつ病出典:Photo by Jason Wong on Unsplash
(前編のあらまし) 教育実習時に感じた不安を掘り下げていくとそこには、当時は気づかなかった、私自身の完璧主義的な考え方の癖がありました。その完璧主義は、卒論執筆時にも私を苦しめたのでした。
大学院進学~かみ合わない心と身体
その後、半年間在学期間を延長し、卒業論文を書きあげました。2度目の提出締め切りでも前回と同じように、負のスパイラルに陥りかけたものの、指導教員の先生が折につけ、「背伸びせず今の自分の力でできることをするように」と声をかけてくださったこともあり、ぎりぎりまで悩みながらもなんとか提出することが出来ました。
それから半年後、大学院へ入学した私は「良い修論を書けるように頑張ろう」「たくさんのことを学んで実りのある時間にしよう」と以前にもまして気合が入っていました。私のそれは少し度を越していたのかもしれません。授業も多く取っていた上、他大学の授業や研究発表にも参加させてもらい、指導教員の先生からは大変じゃないかと心配もされました。それでも、勉強したい気持ちが強く、周りの心配を押し切る形で当初希望していた授業や研究発表、勉強会など、結局すべて参加することに決めました。
しかし、やがて心配されていた通りのことが起き始めました。授業の予習や研究発表の準備、勉強会、そのどれにも準備の時間が必要なのですが、明らかにそれらの量が私のキャパシティーを超え始めたのです。
私は周りと比べてあまり要領の良い方ではありません。むしろ、読むのにも書くのにも、人の数段多く時間がかかるうえ、制限時間によって取り組み方を変えるということも下手です。時間のない時はとりあえず必要最低限をこなすといったことが、ごく自然にできる人もいるかと思います。けれども私の場合は自分が納得できるところまでやり切れるように無理にでも時間を捻出しようとしてしまうのです。
その結果、夜遅くまで起きていられるように毎日のように濃いコーヒーやカフェインの入ったエナジードリンクを飲むようになりました。胃は荒れて、しばしば嘔吐するようになり、睡眠不足もたたって体調を崩す日が増えていきました。そこまでして無理やり時間を作って必死に取り組んでもなお、私にはしっかり準備できたと思えたことはほとんどありませんでした。やるべきところまでできていないという焦りと不安から、徐々に精神的にも不安定になっていきました。「今の自分の取り組み方で良いのか分からない。不足しているところを指摘してほしい」と授業を担当する先生を訪ねたこともありました。やがて、体は疲れているのに、眠りたくても眠れないという状態に陥りました。後から聞いた話では、この頃の私は顔から表情が消えていたそうで、傍から見ても異変を感じるレベルになっていました。
持病の悪化がうつ病発覚のきっかけに
その頃、私には別の変化も起こっていました。それはトイレに行く頻度が明らかに増えた事でした。元々、小学生の頃に心因性頻尿、心身症と診断され、小児神経科で緊張を緩和する薬を処方してもらっていました。私の症状は、「もしトイレに行きたくなったらどうしよう」という強迫観念にから、トイレに行けない状況に強い不安を感じるというものでした。一番症状が酷かった小学生の頃には、学校の行き帰りや乗り物に乗ること、授業にでることにも不安で、体が震えたり、その場から動けなくなってしまうようなこともありました。大学入学以降は症状も落ち着いており、たまに症状が強く出た時に薬を飲む程度でしたが、この頃、その症状も酷くなってきていたのです。
環境の変化があった時には、症状がぶり返すことは以前にもあったので、今回もいつもと同じように薬を処方してもらおうといつもの病院に行きました。
またトイレが不安になる症状が強くなっていることを告げると、担当医の先生に「顔色悪いけど、ちゃんと眠れてる?」聞かれました。そこで、眠ろうとしても眠れないことや胃の不調があると伝えると、「それはうつだよ。ここは小児が専門だから、心療内科を紹介するので診てもらいなさい」と言われたのでした。これが、私が初めて「うつ」と診断された瞬間でした。
その後紹介された病院に通い、投薬治療を受けながら大学院に通うという生活が始まりました。指導教員の先生には、うつ病と診断されたことも報告し、相談の上受ける授業の数をセーブすることになりました。
焦りと不安から犯した過ち
うつの診断を受けた当初は治療を受けながら大学院にも通え、万全ではないまでも状態は落ち着きつつあるように見えましたが、大学院2年目になると徐々に陰りが見えてきました。
2年目になると同じ科に後輩が2人入ってきたのですが、この2人は珍しく他大学からの進学者でした。先輩として、この大学のことを良く知らない2人の面倒をしっかりみなければ、と強く思いました。また、先輩が卒業したことによって、同じ科に同期のいなかった私はその科の研究会の幹事を任されることになりました。当時の私は、そのような変化を特に不安には感じず、むしろやりがいを感じていました。
しかし後から振り返ると、この時の私は、自分にまかされた役目を果たそうと無意識のうちに気負っていたのかもしれません。元が完璧主義のきらいがあるところに、「後輩の見本となるように」という思いが拍車をかけていたのだと思います。授業数こそ以前より控えたものの、授業の予習や研究発表など、前にもまして力を注ぐようになりました。今考えると、この頃からまたじわじわと、悪循環に陥り始めていたのではないかと思います。
また、大学院2年目の冬に控えた修士論文の提出も不安の種でした。修士論文のことを考えると、どうしても卒業論文を書けなくなった時のことが思い出されて、そのたびに書けなくなる恐怖に悩まされました。また、卒論の提出まで1年を切り、「修士論文は卒論よりもさらに良いものにしなくては」「卒論の二の舞にならないよう、早く修論の具体的な全体像を完成させなければ」という気持ちもどんどん強くなっていました。
授業への取り組み方にも研究にもより高い質を求めるようになるのに比例して、焦燥感と不安はどんどん強くなっていきました。
そしてこの頃から、私は徐々にうつの定期検診を休むようになっていきました。初めの頃は気にならなかったのですが、毎回診察のときには、「薬は飲んでいますか」「眠れていますか」と同じことを確認されるだけなのに、1回診察を受けるためには待ち時間を含めると半日はつぶれてしまうのです。当時の私には、その半日があれば、もっと授業の準備や研究ができるのに、という思いが強くありました。また、毎回同じことしか聞かない医師への不信感も少なからずあったと思います。やがて、私は通院を辞めてしまいました。
うつの悪化と退学
勝手に治療を中断したことは、私の予想よりはるかに悪い結果となって返ってきました。通院を辞めてから2ヶ月ほどたった頃には、うつの診断を受けた時の比ではない程、病状は悪化していました。「眠れない」「食べられない」「突然激しい自責の念に駆られて場所もはばからずに涙が出てくる」こともしばしばでした。論文を読んでも内容が全く頭に入って来ない上に、気が付いたら同じところを何度も読んでいるというような有様。思考も全くまとまらず、目に見えて頭が働かなくなっていることに酷いショックを受けました。そのことは、私の焦りに拍車をかけ、私の精神は日に日に不安定になっていきました。この頃、夏季休暇に入っており、自宅にこもって誰にも相談しないままでいたことも悪化の一因だったのかもしれません。
精神的にも肉体的にも限界を感じ、自宅からほど近い心療内科に駆け込んだのは大学院2年目の8月の終わりごろでした。ただ一つ幸いだったのは、先にうつと診断されていたおかげで、あんな状態でも病院に行くという考えに至れたことでした。
病院へ行くと問診表を渡されたのですが、その頃には、「当てはまる症状に〇をつけてください」というごく簡単な問診にすら、すぐには答えられませんでした。ゆっくりゆっくり問診表の症状に〇をつけるたび、情けなくて涙がでてきました。
診察が始まり、医師から言われたのは「大学院はどうしても卒業しなければだめですか」というものでした。つまりは大学を辞めるということ。当時、私にかかっていたストレスの大半は修士論文や大学院での活動に関係するものであり、そのストレスを取り除くことが一番効果的だろうということでした。
当時の私は、自分の状態が以前よりも悪いことは自覚しながらも、夏季休暇の残りを静養にあてれば、また大学院に通いながらの治療で何とかなると思っていたのです。その認識が甘かったことを突きつけられて、酷く動揺しました。医師の言うとおりにした方が多分良いのだろうと思いましたが、それでも大学院を辞めたくありませんでした。「辞めたら、修論のことも、後輩のことも、研究会のことも全部投げ出すことになる」と思うとどうしても決断できませんでした。妥協案として、ひとまず夏季休暇明けから来年春までの半期の間、休学することになりました。
休学することで修論に関する心理的負担は軽減されるかに思われましたが、実際にはあまり楽にはなりませんでした。むしろ、休学してしばらくは、それまで以上に辛かったかもしれません。
というのも、休学したことによって、「またできなかった」「好きで進んだ道なのにそれすらできないのか」という自責の念が頭を離れなかったからです。そんな精神状態で、良くなるわけもなく、休学後半年近く、「ろくに食べられず」「誰とも話さず」「自室にこもってただ自分を責め続ける」という生活をつづけました。「できそこないの自分は居なくなった方がいいんじゃないか」という思いが頭をよぎったこともありました。けれども、どこかで"実行"すれば、後の処理など結局誰かに迷惑をかけてしまうように思われて、結局実行しませんでした。
そんな状態でも、投薬治療を続けると少しづつ効果は出るようで、診断と休学から1年後には少し気持ちも落ち着いて、今後のことを考え始めるようになっていました。復学か退学か。どうするか決めきれないまま、時間ばかりが過ぎ、早くどうするか決めて次のステップへ進まなければという焦りが募っていきました。
修論を書き上げたいという気持ちは確かにありました。しかし、「復学して修論を完成させるまでにどれだけ時間がかかるのか」「そもそもちゃんと書きあげられるのか」という不安が拭えませんでした。それに、復学すれば学費もかかります。同期はとっくに就職しているのに、いつまでも親に甘えるわけにはいかない、そう思いました。
そして、休学から1年後の秋、私は大学院を退学しました。
就労移行支援を知る
大学を退学してからしばらくは抜け殻のようになっていました。また研究をやり遂げられなかったという思いは変わらずありましたが、もう大学院には戻れないと確定したことで、前に進むしかない、とこれからのことを考えざるを得なくなりました。
この時幸いだったのは、これまで分からないことがあれば調べるということが体に染みついていたことでした。というのも、まだあまり深く思考できないながらも、「うつ病について」「うつ病になった人の就職について」調べようという思考が自然とできたからです。
そして、うつになった人の就職について調べる中で知ったのが、「うつ病のような精神疾患を患った人がそうでない人と同じような労働条件で就職、復職の難しさ」、そして「うつ病を含め、就労に困難を抱える人を支援してくれる場所があるということ」でした。私が就労移行支援というものを始めて知ったのはこの時でした。
その後、退学から3カ月程経った頃、少しずつ散歩などで体力を取り戻した私は、いくつかの就労移行支援事業所に体験に行くことにしました。
1年以上、通院以外ではまともに外に出ていなかったので、少なからず不安もありましたが、それ以上に、「今の状態から少しでも進まなければ」という思いが強くあったからだと思います。そんな中で、体験に訪れた就労移行支援事業所の一つが、私が現在も通っている事業所になります。
そして現在、私は就労移行支援に通い始めて8カ月程になります。
おわりに
就労移行支援事業所に通い始めた当初は、張り切りすぎて体調を崩すこともありましたが、その都度、支援員の方と自分の今の状態と今後の就労に向けた目標、そこへ至るまでにやっていくことを整理し、ひとつずつ積み重ねてきました。
このコラム執筆を通して、自分がうつになるまでの経緯を振り返れたこともその助けになっています。
願わくば、このコラムが私自身のうつへの理解を深めただけでなく、だれかの助けになってくれたらと、そう思います。
うつ病