精神を摩耗し合った大学生たち「一橋大学アウティング事件」
暮らし自分のマイノリティ属性を自ら公にすることは「カミングアウト」と言いますが、他人のマイノリティ属性を勝手に暴露することは「アウティング」と呼ばれています。アウティングの名を世に知らしめたのは、一橋大学で起こったある学生が死に至るまでの一連の流れでした。
この「一橋大学アウティング事件」は、ゲイであることをグループチャットで暴露された学生が自殺した事件として“伝わって”います。しかし、死亡学生の態度が明るみになると、「アウティングと自殺」では語り尽くせない複雑な事情までもが浮き彫りとなりました。
互いに精神を削り合った二人の学生。彼らは「アウティングとは何か」を端的に示しただけでなく、「カミングアウトの上で好き勝手されたらどうするか」「マイノリティを盾にされたらどうするか」の問いまでも投げかけていきました。しかし、後者の難問は今も放置されたままです。
転落までのいきさつ
事の発端は2015年4月3日、死亡学生が被告学生へ「好きだ、付き合いたい」とメッセージアプリ上で告白したことでした。同時に、これは自分がゲイであることのカミングアウトでもありました。
被告学生はこれに対し、「付き合うことは出来ないが、良い友達としてやっていこう」と答えました。なぜなら、被告学生はゲイではないからです。しかし、これを機に死亡学生からのアプローチが激しくなり、被告学生はこれを当たり障りのないよう拒否せねばならなくなりました。
6月24日、やがて被告学生は、死亡学生を含めて10人程度入っていたグループチャットで「ごめん、お前がゲイであることを隠し続けるのはもう無理だ」と暴露します。このアウティングを機に死亡学生は、被告学生と同じ場にいると吐き気や動悸などを起こすようになり、不安神経症と診断されました。
死亡学生は心療内科や学内のハラスメント窓口などに相談して回っていましたが、8月24日、大学構内のマーキュリータワー6階から転落してその生涯を終えます。遺族から責任を追及された被告学生は、遂に民事訴訟の場へ引きずり出されることとなりました。
民事訴訟は翌2016年8月5日から始まり、被告学生はその場で死亡学生について語ることとなります。その主張は、「アウティングによって心を病み自殺した可哀想な学生」という死亡学生の人物像を覆しかねないものでした。
死亡学生の態度
死亡学生からのアプローチはカミングアウトの少し前からありました。最初は旅行先の写真や桜の写真を送ってくるだけでしたが、この時点で怪しく思っていたそうです。更には「俺の事嫌いになった?」とまで送られ、その時は混乱したと語っています。
カミングアウトの前日、研究室にいた被告学生のもとに死亡学生がやって来て「俺に何か悪い点があったとしても、何も言わないでくれ」と泣きだす出来事がありました。被告学生は、この時点で死亡学生から距離を置こうと決めていましたが、結局カミングアウトに「付き合えないけど、良い友達で」と返してしまいます。
死亡学生はこれを「友達よりも上」と捉えました。「選りすぐりの法律事務所のリストを送る」「モーニングコールをせがむ」「しょっちゅう食事に誘う」「他の友達との食事に、呼んでもないのにやって来る」「授業中にボディタッチしたり『今日は香水強いかな』と訊いてきたりする」と、被告学生への態度はエスカレートしていきます。
被告学生は当たり障りなく返すよう努めてきましたが、死亡学生のアプローチは激しさを増すばかりです。当たり障りない被告学生の態度に対し、死亡学生は突然頭を抱えて「うあー!」と喚き、被告学生に縋ろうとしました。これには思わず「触るな」と明確に拒絶してしまったようです。
これを機に被告学生は死亡学生を避けるようになりましたが、死亡学生を避けるには友達グループそのものから離れねばならず、孤独な学生生活を強いられました。やがて被告学生は精神に不調をきたし、不眠に苛まれます。おまけに、死亡学生の態度は変わりません。
精神的に追い詰められた被告学生は、状況を打破するためにアウティングするしかなかったと主張します。その結果、今度は死亡学生の方が不安神経症に陥ってしまいました。事件当初の報道では、パニック発作によってベランダから転落したと報じられていました。
被告学生の主張が全て本当であるならば、死亡学生は元々精神的に不安定な部分を抱えており、対人での距離感も上手くコントロール出来なかったことが窺えます。アウティングはやり過ぎでしたが、被告学生も精神的な摩耗が激しく正常な判断が出来なかったのかもしれません。
遺族は被告学生に約300万円の損害賠償を請求していましたが、この訴訟は既に和解が成立しています。ただ、和解内容については口外禁止条項によって公にならず、決着は永遠に不明のままとなりました。
アウティングの違法性だけでも
これとは別に、遺族は一橋大学側にも訴訟を起こしていました。大学側は「転落死は突発的で予見できなかった」と抵抗の構えを見せ、判決は一審二審ともに原告である遺族の訴えを棄却しました。
しかし、二審の東京高裁では遺族の訴えを退けながらも、アウティングについてこう述べています。「(アウティングは)人格権ないしプライバシー権などを著しく侵害するものであり、許されない行為であることは明らか」これは日本で初めてアウティングの違法性について言及した判決とされています。
一方で、被告学生の主張に沿った問いも残されています。カミングアウトされた上でつきまとわれたらどうすべきか、もっと踏み込んだ言い方をすれば、「マイノリティを盾にすれば、ストーカー行為すら許されるのか」という問いです。
思うに、死亡学生はそもそも恋愛活動が出来るほど安定した精神状態ではありませんでした。それはもはやゲイ以前の問題です。精神的に不安定で対人距離の調節も下手とくれば、誰が相手でもまともな恋愛にはならなかったのではないでしょうか。
不安定な精神と対人距離のままアプローチを続ける死亡学生に、被告学生は波風立てぬよう努めて対応してきました。しかし、閉塞する状況から自身も精神を摩耗した結果、アウティングという形で爆発してしまい、あのような結末を招きました。
アウティングの存在を世に知らしめた「一橋大学アウティング事件」。その実像は、二人の大学生が相互かつ無自覚にメンタルヘルスを喰らい合った末の悲劇でした。とはいえ、被告学生も苦しんでいたからといってその非を無かったことにしてはなりません。もしその理屈が通るのなら、例えばアンチ自閉症と成り果てたカサンドラ症候群のヘイトスピーチなども許されることになります。事情を勘案するにしても、「被害者面」にまで寛容となるのは考えものです。
参考サイト
ゲイを暴露された一橋生の死から4年「事件を風化させない」行動する在学生や卒業生
https://www.businessinsider.jp
ゲイだとバラされて自殺?一橋大学アウティング事件の真相
https://kakuyomu.jp