感動ポルノの功罪を問う③~身体障害者芸人と社会学者の見解

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Owen Kemp

◀前回の記事:感動ポルノの功罪を問う②~24時間テレビは障害者福祉の革命児だった


前々回は「感動ポルノ」という造語の興りを、前回はバリバラで標的とされた24時間テレビが障害者福祉における革命児だった時代を解説しました。

24時間テレビが始まった41年前と比べると価値観は大きく広がっており、どれが正しくてどれが間違っているかを仕分けることすら不毛に感じます。中には「感動ポルノ」という造語自体に対する批判もありますからね。「ポルノ」に対する差別に当たるのではないか等です。

最終回となる第3回は、「感動ポルノ」についての言説で興味深かったホーキング青山氏と前田拓也氏の意見にフォーカスしていきます。その後、「感動ポルノ」の言葉の行方も考察していきましょう。

ホーキング青山氏「障害者の気質は多種多様」


芸人キャリア20余年という身体障害当事者のホーキング青山氏は、デイリー新潮編集部からの取材に対しこう答えました。「24時間テレビに関してネタでは散々いじっていたが、本心では障害者について初めて取り上げた功績については評価しており、『偽善』と罵るつもりはない。ただ、多種多様な性質・性格を持つ障害者の紹介になっていないのは違和感がある。」

青山氏は「確かに『感動ポルノ』は褒められたものではないが、頭ごなしに『感動するな!』と押さえつけるのも違う。」とも答えています。青山氏なりに感動させない方法としてどのような事をしていたのでしょうか。

青山氏がデビューしたての頃は「感動の反対は呆れだ」と思い、下世話なネタで呆れさせてから本筋のネタで笑わせるスタイルをとっていたそうです。その芸風に限界を感じると、「『障害を抱えても頑張る芸人』と呼ばれないためには『面白い芸人』になる必要がある。」としてスキルアップに注力するようになりました。障害と関係ない笑いを提供する一環として、10年前から落語も始めています。

芸人としての実力をつけて「根拠のある感動」に変えることが青山氏にとっての対感動ポルノとなりました。一般の障害者には、日常や周囲に溶け込み「障害者」ではなく「一個人」として見做されれば根拠なき感動の対象にならないと説いています。障害当事者は自分自身が障害者のリアルとして周りに溶け込むことが理解の早道というのが青山流です。

取材したデイリー新潮編集部は、「青山氏の言うように周囲に溶け込むのも一つだし、感動の対象になることを厭わない人もいる。障害者も健常者も十人十色。」と締めくくっています。

前田拓也氏「社会が課した『障害』を『感動』が隠蔽する」


社会学者の前田拓也氏は、「感動ポルノ」が障害者へもたらす不利益として主に「社会的責任の隠蔽」と「障害者役割の固定化」を挙げています。

①社会的責任の隠蔽
火付け役となったステラ・ヤング氏のスピーチでは「障害者が本当に乗り越えるべきなのは、己の障害ではなく不要な特別視でモノ扱いする社会である。」とも述べられていました。要するに障害者にとって真の障害とは、物理・社会・文化などの面で社会が押し付けた障害(非バリアフリー・就職難など)であるという見解です。「困難を乗り越える障害者」を描く「感動ポルノ」は、「障害も“個人“の努力で乗り越えられる」という怠慢な誤解を広めます。ゆえに、障害者に対する社会的責任を障害者個人へ転嫁することになりかねないのが第一の不利益です。

②障害者役割の固定化
「感動ポルノ」における障害者の描き方は、「無力だが純真無垢な存在」が「困難に挑んで成し遂げる」というものが多いです。これが大衆に「障害者とは純粋だが無力な努力家」というイメージを植え付け、「障害者役割」として固定化されてしまうのが第二の不利益です。当然障害者には色々な性格や体質の人がいるので、「クズエピソードを敢えて隠さずに語る」「その障害で生活上困っていない」というケースもあるでしょう。ただ、そういった「障害者役割」に外れた障害者への目線は厳しくなりがちです。健常者からの非難を避けるために「障害者役割」へ収まらざるを得ない状況が生まれ、さらに「障害者役割」は強まっていくスパイラル構造があります。

また、前田氏は「感動ポルノ」への批判も「本音主義」に絡むと良くないとしています。「本音主義」とは、禁忌や反論を顧みず本音で語ることを至上とする考え方で、近年のネット上ではよく見られる傾向にあります。バリバラの挑発的な取り組みに対する称賛も「バリバラはよく言った!やはり24時間テレビはろくでもない番組だ!」で終わってしまえば先に進みません。寧ろ「本音主義」の蔓延が障害者ヘイトを加速させる恐れすらあるのです。「感動ポルノ」への批判は「社会的責任」と「障害者役割」に問う形で行われるべきと前田氏は述べています。

バリバラについて前田氏は、マスメディアが障害者をどう扱っているか内省しつつ障害者を扱う番組というのが実際の姿と述べています。24時間テレビの挑発回だけがバリバラの全てではないのです。

障害者の枠を超えた言葉に


ところで、「感動ポルノ」は障害者の枠を超えて広まっていることはご存知でしょうか。言葉が浸透してからは甲子園や駅伝など体育系の行事に対して呼ばれるようにもなってきました。特に学校の運動会で扱う「組体操」は「感動ポルノ」的な側面が根強いのではないかとされています。教育社会学者の内田良氏は、2015年の時点でステラ・ヤング氏の発言を拾い「集団感動ポルノ」とアレンジしたうえで自説を展開しています。

組体操における「感動ポルノ」は、感動の対象が障害者から子どもたちに変わっています。下の子は圧倒的な重量負担に耐え、上の子は安全対策もされぬまま不安定な人間足場で高所へ上り、その苦行で大人たちが感動しているという構造です。死亡や後遺症に繋がる事例もあって危険性が久しく指摘されており、国連までもがダメ出しをする事態となっています。

理由については諸説ありますが、学校現場の組体操依存が相当のものであることは確かです。巨大ピラミッドが密かに復活している動きもあり、国連の指摘があってもなお危険行動をやめる気配はないようです。しかし痛みや重みに耐えるばかりか大怪我を負うことすら美徳とする組体操は「感動ポルノ」といっても言い過ぎではありません。

「感動ポルノ」という言い回しはもはや障害者への眼差しに限ったものでなく、苦行への忍耐を美しいドラマとする風習全体に一石を投じるフレーズとなっています。「ポルノ」呼ばわりは、その産業に従事する人々に失礼ではないかという声もあるのですが……。

まとめ


全3回に分けて「感動ポルノ」という造語の興りと、槍玉に挙げられた「24時間テレビ」の当初の姿、そして「感動ポルノ」に対する識者の見解についてまとめました。突き詰めていくと24時間テレビだけを悪者として扱うだけでは済まない“深さ“を思い知らされます。

私は具体的な答えは何一つ出していません。なにしろ健常者の目線や障害者の振る舞いはどうあるべきかという内心に踏み込んだテーマにまで発展していますので。個人的に一つ言えるのは、障害者が「弱々しく可哀想な存在」として振舞わなかっただけでキレないで欲しいことくらいですかね。

参考文献

「24時間テレビ」「感動ポルノ」を当事者はどう考えるか 障害者芸人ホーキング青山の主張|デイリー新潮
https://www.dailyshincho.jp

「感動」するわたしたち――『24時間テレビ』と「感動ポルノ」批判をめぐって ? 前田拓也
https://blogos.com

子どもの安全よりも、汗と涙の"集団感動ポルノ"|女子SPA!
https://joshi-spa.jp

遥けき博愛の郷

遥けき博愛の郷

大学4年の時に就活うつとなり、紆余曲折を経て自閉症スペクトラムと診断される。書く話題のきっかけは大体Twitterというぐらいのツイ廃。最近の悩みはデレステのLv26譜面から詰まっていること。

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