私がうつ病になるまで(前編)~完璧主義による負のスパイラル

うつ病

出典:Photo by Green Chameleon on Unsplash

今回、私のうつ病発症の経緯をお話しするにあたって、自分のこれまでの経験を振り返ってみました。そして気づいたのは、うつになり体調を崩すずっと前からその問題の芽は私の中にあり、色々なところで現れていたのではないかというものでした。

大学入学当時の私

私は2012年に1浪ののち、第一志望の大学に進学しました。かねてから希望していた大学に入ることが出来たということもあり、大学では興味のある授業をめいっぱいとりました。部活動にも入っていたため、忙しさはあるものの心地よい充実した日々であったと思います。大学進学当初は教員の道へ進もうと考えていましたが、教育実習の後にその思いは大きく揺らぐことになります。今振り返ると、この頃から、私の考え方の癖は目に見える問題となって表れ始めていたように思います。

教育実習で見え始めた考え方の癖

教育実習が始まる前は、元々、教員を志望していたということもあり、実習への不安や緊張感もあるものの、実りのあるものにしたいという意気込みも強く持っていました。

しかし、実際にふたを開けてみると、私にとっての教育実習は、予想をはるかにこえて苦しいものでした。特別、授業が荒れたというわけでも、何か大きなトラブルがあったというわけでもありません。

ただただ、もっと良い授業にするにはどうしたらよいのか、限られた時間で学力も意欲も差がある学生たちに最大限実りのある授業をするにはどうしたらよいのか、そのようなことをずっと悩み続けていました。

このようなことを考えること自体は、意味のあることかもしれません。しかし、この時の私は完全に答えの出ない問いに飲まれてしまっていました。どうしたらもっと良い授業にできるのか、どうしたら、どうしたら、どうしたら……

今思うと、ただの教育実習生に、理想の授業なるものを具体的に描けるはずも無く、答えの分からないなりに手探りでやっていくしかないことだったのでしょう。

しかし当時の私は、生徒にとってもっと良い授業をしたいという思いと、その思いに反して本当に生徒のためになっているのか自信を持てないまま授業をせねばならない現実のギャップにどんどん消耗していってしまいました。毎日何度も授業案を練っては書き直し、早朝まで悩みつづけることも少なくありませんでした。

結果、栄養剤などでだましだまし、何とか実習はやり遂げることが出来ましたが 実習が終わるころには体力的にも精神的にも限界に近い状態でした。そして実習後に感じたのは、そのまま教師を目指すことへの強い恐怖でした。

「たった2週間の実習でこんな状態になってしまうのに教師になんてなれるのか」

「私には教師の適正はないのではないか」

「ほかの道を考えたほうが良いのではないか」

「教師になりたいという思いはそんなに簡単に諦められるものなのか」

このような自問自答を繰り返し、大学修了後の進路として出した結論が大学院へ進学するというものでした。

「もっと勉強すれば自信を持って、教師を目指せるようになるかもしれない」

「研究自体も好きだし、研究者の道に進むことも考えても良いのかもしれない」

当時の私は大学院に進学することが、私が直面する問題への解決策になると思っていました。

けれども今は、この時の私は、当時私が直面する問題にきちんと向き合えていなかったのではないかと感じています。というのも、今の私から見て、当時の私を真に苦しめていたのは経験や知識、自信の不足ではなく、理想と現実のギャップを受け入れられないことだったからです。

そしてこの理想と現実のギャップを受け入れられない、「完璧主義」とでもいうような私の性格はその後も長く私を苦しめることになりました。

完璧主義による負の影響は卒論執筆にも

大学院への進学を決めた私はその後、卒業論文の執筆と大学院入試の勉強に大半の時間を費やすようになりました。元々、勉強自体は好きな方でしたし、卒業論文に関しても3年の頃からテーマも決まっており、それに関連するレポートの執筆や発表も何度も経験していたこともあって、院試についても卒論についても当初それほど不安は感じませんでした。指導教員の先生とも卒論の内容についてこまめに相談はしていましたし、「これまでどおり進めていけば、卒論も問題なく書けるだろう」、「テーマも内容も決まっているし、後はこれまで発表してきた内容をどれだけ読み手にわかりやすくまとめられるかだけだ」私自身そう思っていました。おそらく傍から見ても、私の卒論執筆はそれほど不安視されるような状態ではなかったでしょう。

雲行きががおかしくなったのは、年明けの卒論提出を控えた年末年始休暇のころでした。「どこか説明が不十分に感じる」「何か言葉が足りない」「これでは伝わらない」「こんなものではだめだ」という思いにとりつかれ、何度も何度も書いては消すのを繰り返すようになっていました。

当時の私はなぜこんなことになっているのか理由が分からず、焦りと不安でどんどん不安定になっていくばかりでした。そのうち、不調は体にも現れるようになりました。ものが食べられなくなり、寝床に入っても卒論のことが頭を離れず、あれこれ考えている間に朝になっているというような日々が続きました。

このままではいけないと思い、卒論が書けなくなってしまっていることを指導教員の先生に相談もしました。当然のことながら、なぜ書けないのか聞かれました。本当ならば、この時、「書いても書いてもこれではだめだと思ってしまう」と、私の精神面での書けない理由を相談すべきだったのだと思います。けれども、当時の私は「この説明が適切でないように感じる」「この主張に論理の飛躍があるように思う」といった卒論の内容面に問題があるのだと思い込み、そのような相談に終始していました。

そして、締め切りの日、私は卒論を書き上げることが出来ませんでした。

卒論を出すことが出来なかった私は、その後、当然のことながら指導教員の先生と面談の場を持つことになりました。

部屋に入った私の憔悴ぶりをみて、先生はとても心配された様子でした。その後、ゆっくり促されながら、書けなくなってしまった時、ずっと「これではだめだ」という思いに駆られていたことをお話しました。

私の話を聞き終わると先生は「君は完璧主義で、くそ真面目で、不器用。これは強みにもなるけれど、今回はそれが悪い方に働いてしまった。とても残念なことだけど」とおっしゃいました。

この時初めて、私は自分の中に完璧主義と言われるような部分があることを知ったのでした。今思うと、先生がおっしゃったとおり、私の根本的な問題は、自分の実力以上のものを望んで、それに届かないことを許容できずに身動きが取れなくなっていることにあったのでした。

卒業論文が提出できないということは、すなわち卒業できないということを意味しています。そうなると当然、親にも黙っているわけにはいきません。怒られるだろうし、それは私が悪いのだから当然のことです。どんなに怒られてもきちんと受け止めようと、そう思っていました。

けれども父に卒業論文を出すことが出来なかったと報告したとき、返ってきた反応は私の予想とは悪い意味で違っていました。

はっ、と吐き捨てるような笑いと共に言われたのは「何や、食べられんくなってたのはそれでか」というものでした。

父のその言葉の真意はわかりません。しかし私には、まるで仮病を使ってずる休みをした子供にあきれるような言いぐさに聞こえました。

「父にとって私の不調は、子供の仮病と変わらないのか」

「二十数年一緒に暮らしてきて、この人には私はそんな人間に見えていたのか」

これまでに感じた事のない悲しみと悔しさ、必死に取り組んできたものを軽んじられた怒りでどうにかなってしまいそうでした。その後父に、締め切りまでに書けなかったのは私が悪いのだと、それでも私なりに必死に取り組んだのだと伝えたものの、結局理解してもらうことはできませんでした。

この時のことから、父とは今でもあまりうまく話せません。後にうつ病の診断を受けた時にも、父には私の口からそのことを伝えることはできませんでした。

教育実習と卒論執筆に際して私を苦しめた完璧主義は、その後の私の大学院での生活にも影響を与えることになります。やがて、積み重なったひずみは様々な体の不調として現れてきます。

(後編に続く)

Nekosuke

Nekosuke

大学院在学中にうつ病の診断を受け、1年の休学の後、退学を決意。
現在は就労移行支援事業所に通っている。

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