高齢者の介護に触れてみて思うこと。
暮らし出典:Photo by Max Bender on Unsplash
先日、母の友人であり、わたしが子どもの頃から仲良くしてくださっている方が倒れました。主な原因は心臓の病気でしたが、70歳を過ぎ、癌を始め様々な疾患を併発している状態です。
そんな母の友人「みっちゃん」のしんどさに触れて感じたことがあります。
はじめに
みっちゃんは、半年ほど前までは一緒に回転寿司を食べに行ったり、とても元気に見えました。喘息持ちなのにヘビースモーカーなので、息苦しそうにしているときはありましたが、元気に歩き、70歳を過ぎてなおアルバイトなどをしていました。
そんなみっちゃんが、心不全で救急で運ばれ「今日がヤマかも知れません、覚悟してください」と、関係者であるわたしやわたしの母に告げられました。
お医者さんの尽力もあり、みっちゃんは奇跡的に一命を取り留めたのですが、そこから先、現在に至るまで苦難の日々を過ごしています。
訪問看護の方が来てくださったりしてある程度の健康管理などはしていただいていますが、食器の洗い物や洗濯、頭髪の手入れなどはわたしの母が協力しています。
ですが母も80歳と高齢であり、高齢者が高齢者を介護する状態となって、皆が疲弊しています。
金銭的な部分などでは、行政の方でも生活保護を受けられるように動いてくださったりしています。
高齢者と障害者の壁
心肺などが弱っており、歩行も難しく、移動は車いすでしかできない。若干の認知症の兆候が見られるこの状態。わたしは「健常者」だとはいえないと思います。
もちろん国の定める「障害者」に該当するものではありませんし、日本中にこのような高齢者はたくさんいらっしゃいます。今もなおどんどん増えていっていますよね。
母も頚椎ヘルニアの手術をしたりしましたが、手足が少し不自由であり、リウマチやばね指などもあります。ですが障害者手帳を持っていません。
一方わたしは、パニック障害や双極性障害などを抱えており精神障害者手帳を所持してはいるものの、外見から判断できる障害はありません。
「ここ」に一体どんな壁があるというのでしょうか?
わたしの地元では、杖や手押し車を押してゆっくりと歩く高齢者の方が沢山おられます。自販機の高いところのボタンにも届きませんし、ATMの操作などもおぼつきません。ですがこれらは「障害」ではありません。
自分の目で見て、改めて感じた
この間、牛丼屋でお昼ごはんを食べたときのことを思い出しました。
わたしが食事していると、老夫婦が入店してきました。旦那さんが車いすで、奥さんが介助しているような感じだったと思います。
そのお店はカウンター席しかなく、お店の方と老夫婦の話し合いの末、カウンターの椅子の上に料理を置き、車いすのまま食事していただくことになっていました。もちろんしっかりと説明した上で、こぼして火傷したりしてもどうにもできないよ!といった感じのやりとりがなされていて、双方納得していました。
この旦那さんが、どのような病気やケガで車いすで生活されているのかはわかりませんが、車いす生活の「障害者」としてSNSなどで投稿すれば、色々な議論が生まれるかもしれません。
ですが、国の定めた障害者でないただの高齢者である場合は「老害」とされるかもしれません。
わたしは食事をしながら「こういった面でのバリアフリー化も必要だな」とか「高齢者が車いすで生活することと障害者が車いすで生活することの違いはなんだろう」と感じました。
みっちゃんの車いす生活や、母が杖や手押し車を使用していることに触れなければ、こういった考えは生まれなかったと思います。
未来の自分はどうなるか
一定の高齢者をすべて障害者として扱えとはいいませんが、極端に日常生活に支障をきたす場合、生活保護や介護認定のみならず、身体障害などとして扱われてもいいのではないかと思います。
わたしは障害者として大阪市の地下鉄などを無料で利用させていただいていますが、母に関しては高齢者割引のみです。この差はいったいどこから生まれるのでしょうか?
どんどんと加速していく高齢化社会、今後こういった「生活が不自由な高齢者」を障害者として認定していく動きも必要なのかなと思った、そんな日でした。