映画の中の障害者(第20回)『バグダッド・メッシ 片足のサッカー少年』
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Photo by Geoffrey Moffett on Unsplash
8月7日から全国公開されている映画『バグダッド・メッシ 片足のサッカー少年』をご紹介します。本作は、戦火のイラクを舞台に、テロの巻き添えで片足を失った少年がサッカーへの夢を追い求め続ける姿を描いたヒューマンドラマです。中東の緊張感ある地雷地帯の描写など、緊迫したサスペンス要素も含んだ見応えある一作となっています。
作品の背景と戦争のリアル
物語の舞台は、シーア派とスンニ派の対立やイラク民主化の波、そして爆撃や戦闘が絶えない2009年のイラク。主人公の少年ハムディは、戦争の犠牲となり片足を失ってしまいます。
これまで本コラムで取り上げてきた映画の多くは、先天性の障害を描いた作品が中心でした。しかし本作の主人公は、社会や戦争という不条理によって突然身体の一部を奪われた、明確な社会の犠牲者です。
スーパースター・メッシに強い憧れを抱き、サッカーこそが人生のすべてだった少年から、ある日突然その日常が奪われる――。日常生活すらままならず、さらには障害によって周りから厄介者扱いされる理不尽な状況に置かれれば、自暴自棄になって周りに当たり散らしてもおかしくありません。作中でも「うるせえ!」と悪態をつくような等身大の葛藤が描かれますが、それでも少年はサッカーへの情熱を諦めません。サッカーが心の支えとなり、ボールを追い続けることで、次第に周囲の少年たちとも心を通わせていきます。
そうした希望の光が見え始める一方で、容赦なく突きつけられる現実の不条理には胸が締め付けられます。戦争がいかに人間の未来や当たり前の生活を破壊してしまうのかを、改めて強く考えさせられます。
本作の主人公ハムディを演じたアフマド・モハメド・アブドラさんも映画同様、イスラム国の爆破テロにより片足を失っています。現実をなぞった物語を演じるのは、残酷にも思いますが、独特のリアリティを見る者に与えます。
後天性障害がもたらす葛藤と、避難場所としてのサッカー
五体満足だった身体が突然奪われる絶望は、想像を絶するものがあります。
生まれつき障害を持っている(先天性)場合は、その状態が「自分にとってのスタート地点」であるため、過去の自分と比較して絶望するという感覚は少ないかもしれません(成長し、社会と関わる中で自身の障害を意識していくことが多いでしょう)。
一方で、後天的に障害を抱えることになった場合は、「過去の健康だった自分」と「現在の障害を抱えて生きる自分」という2つの現実に向き合わなければならず、その心の葛藤はより複雑で深いものになります。作中でも、少年が「また足が生えてくるのではないか」という儚い幻想に縋り付いてしまうシーンがあり、その現実逃避の姿に痛切な切なさを覚えます。
このあまりにも過酷な現実から逃れるための「唯一の避難場所」こそが、彼にとってのサッカーだったのだと感じます。そして、本作では戦火のイラクの過酷な現実においては障害の有無を超えて、少年たちの避難場所となっています。言葉や対立を超えた「共通の熱狂」は、人々の違いや心の溝を埋めてくれる力を持っています。
共通の熱狂が持つ力
普段の生活では、お祭りとか集団の熱狂と距離を置きがちな私ですが、誰もが一緒になって盛り上がれる共通のものを持つことの大切さを、この作品を通して痛感しました。先日のサッカーW杯でも、にわかファンながら、諦めずにボールを繋いでいく姿勢が奇跡を生み出すのだと心を揺さぶられました。こうした熱狂は、人を結び生きる勇気とエネルギーを与えてくれるのだと感じます。
戦争の残酷さと罪深さを突きつけられると同時に、どんな困難な状況下でも逞しく生き抜いていく人間のタフさを教えてくれる一作です。
参考サイト
映画『バグダッド・メッシ 片足のサッカー少年』公式サイト
https://baghdad-messi.jp/
監督インタビュー(障害者ドットコム)
https://shohgaisha.com/column/grown_up_detail?id=3469


