傷付き感情をぶつけ合う「被害者意識」の応酬について
暮らし
かつてXに「人生楽しんだもん勝ちっ」の題で投稿されたイラストが、不可解な理由で炎上する出来事がありました。イラストは何の変哲もない、卒業間近の3月に小学生たちが箒などで思い思いに遊ぶ活発でノスタルジックなものです。
炎上に関してイラストの作者に何の落ち度もありません。楽しそうな小学生の絵に寄ってたかって「陰キャエピソード」を呪詛のように投げつけ、存在しない悪意を嗅ぎ取って勝手に怒りを増長させるユーザーたちの感性にこそ百パーセント問題があります。
存在しない悪意を読み取ってキレる大人
露骨に誰かを馬鹿にしたわけでもないのに、そこに存在しない悪意を勝手に読み取られて「許されざる有害表現」として糾弾される流れは、あの「人生楽しんだもん勝ちっ」に限らず色々なイラストで起こっています。
なぜ描き手に濡れ衣を着せ悪魔化しようとするのでしょうか。それは「被害者意識」だけで動いているからです。いかにもそれらしい台詞をゴチャゴチャと並べている場合もありますが、根底には自分が不快にさせられたという被害者感情がいつも隠れている訳です。自分が被害者だと信じ込んでいるからこそ、どこまでも攻撃的になれる素地があります。
いつの間にかネット上の論戦(レスバトル)は、被害者らしさのぶつけ合いが中心になってきました。「かわいそうランキングの上位争い」「最強の弱者決定戦」などとも揶揄されています。なぜ自らの被害者性を誇示するのか、なぜ被害者としてより可哀想であろうとするのか、その心理の一端は晶文社スクラップブックに寄稿された記事「『被害者意識の文化』と『マイクロアグレッション』」で説明されています。
悪いとこ取りの文化
その稿によれば、被害者意識の文化が生まれる前の道徳文化(moral culture)には「名誉の文化(Culture of Honor)」と「尊厳の文化(Culture of Dignity)」がありました。
名誉の文化とは、名誉を傷つけられる「侮辱」に対して敏感で、私刑で報復する「自力救済」を是とする、乱暴に言えば「ナメられたら終わり、弱い奴が悪い、悔しかったら反撃しろ」という地方のヤンキーみたいな考え方です。弱そうに見せないこと、侮辱には速やかに反撃すること、名誉のためには暴力も躊躇ってはならないこと等、ヤンキー漫画をそのまま抜き出したような行動原理の数々。報復すべき「侮辱」は自身へのものに限らず、身内や地元への侮辱も含まれ、本文では妻への侮辱を即座にビンタで返したウィル・スミスの所業が例として挙げられています。
一方、尊厳の文化はさっきの逆で、他からの「侮辱」には怒りを抑え自分から侮辱を投げかけるのも控えようとします。あちらが地方のヤンキーなら、こちらは都会の知識人。「寛容」たらんとし、すれ違いは当事者間の「交渉」による解決を重んじ、それでも解決しなければ警察や法廷などの公的な第三者を交えようという理性的な考えです。公権力への訴えはあくまで最終手段とし、みだりに頼るのは「浅薄」であるとされ、自力救済に至っては論外となります。自然発生的に生まれる名誉の文化と違い、こちらは人間の意志や理性を介入させないと成り立たない特徴もあります。
それで第三の道徳文化となる「被害者意識の文化」は何なのかと言いますと、両者の悪いとこ取り、都会のライフハックを取り入れた小賢しいヤンキーです。名誉の文化が持つ「ナメたら許さねえ」という侮辱への警戒と、尊厳の文化が最終手段とする「権威ある第三者への訴え」を組み合わせたキメラ。しかし、名誉の文化と違って「弱さ」を隠さず、尊厳の文化と違って「交渉」もしません。
被害者意識の文化でステータスとなるのは、自分がどれだけ可哀想で恵まれなくて生きづらいかという「被害者性」です。被害者性が大きいほど意見を通しやすくなるので、この世界観の中では「自分こそがより生きづらい被害者だ」と誇示する為にあらゆる層が理屈をこねてポジショントークを展開しています。弱さという「特権」を奪い合う有様は、およそ交渉と呼べるものではなく、議論の皮をかぶったヤンキーの小競り合いに過ぎません。落としどころを設定しない交渉は交渉と言わないんです。
本文で一緒に述べられている「マイクロアグレッション」にも、被害者性を競い合う文化が色濃く出ています。マイクロアグレッションとは、無意識の偏見を何気なくこぼすことによる微細な攻撃性のことを言い、「ハーフなん?どうりで彫りの濃い顔だと思った」みたいに大抵はマイノリティへ向けられる前提で語られます。本来なら、一般的に勝ち組とされる特徴や属性に対しても例外ではありません。「物件探しで困ってるって?医者やってるなら一括で買えるでしょ?」みたいな言い草にも適応されるべきでしょう。ですがしばしばマイノリティへの攻撃として扱われます。自分がより被害者らしくあるために。
被害者性を競う、冴えない人生
自分がより可哀想な被害者であることの喧伝に腐心し、被害者性を競っていく生き方は、なんとなくでも不健全であることは想像がつくでしょう。地方ヤンキーらしい名誉の文化では、侮辱や攻撃へ即座に報復し捻じ伏せる怒りのパワーがステータスとなります。都会インテリらしい尊厳の文化では、激することなく穏便に交渉するセルフコントロール能力がステータスとなります。では被害者意識の文化では何がステータスになるのかというと、些細なことにも悪意を見出し傷つく過敏さと脆弱さです。
被害者性を競うほど、周りがどんどん敵に見えて傷つきやすくなります。些細なことで傷ついて、存在しない悪意を見出し、被害者感情を湧き立たせ、怒り散らし泣き喚く……というのが被害者意識の文化で上位を取るための生き方です。これはハッキリ言って「冴えない人生」です。不幸や生きづらさを競うような世界観で、自分の人生や生活をより良くしようする上昇志向など芽生えるでしょうか。傷つきのもとを探して彷徨い、あちこちへ噛みついて、自分の不遇に甘え続けるのは、率直に「ダサい」としか言いようがありません。ヤンキーから見てもインテリから見ても明らかに「ダサい」です。
参考サイト
「被害者意識の文化」と「マイクロアグレッション」
https://s-scrap.com
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