クラスに馴染めない私が、登校拒否を拒否された結果……

発達障害

出典:Photo by James Sutton on Unsplash

あなたには、過去、身の周りの環境に合わず、通学や通勤に精神的な苦痛を覚えた経験はありますか?そんなあなたに周囲の人はどのような反応、対応し、それを受けたあなたはどうなりましたか?私の場合は高校2年生の時の経験が、直接的に進路への弊害を感じ、強く印象に刻みつけられています。

私の障害

まず、私の障害について少し説明します。私は、平成29年に「自閉症スペクトラム」その二次障害に「抑うつ状態」の診断を受けました。私自身が生き辛さを自覚したのは幼少期の頃です。

主な特性は、他人に興味を持ちにくいため、相手の立場に立って考えることが苦手で、主観に偏った深読みをする傾向があります。そのため、対人関係を円滑に進めることが困難な場面が多々あります。

その他、現れている特性としては、

・曖昧な表現のニュアンスを受けて、適切な判断や対応が難しい
・強いこだわり、執着
・日常生活レベルにおいて興味関心を抱く範囲が限られている(掃除、洗濯、特定の身だしなみのポイントに関心を持ちにくい)
・感覚過敏(聴覚、嗅覚、味覚、視覚)

といったものがあげられます。

登校拒否を拒否された

高校時代、私は絶望的なまでにクラスの人間関係に恵まれず、毎日が憂鬱でした。今でも忘れられない記憶を1つ挙げるとするなら、調理実習での出来事です。

大部分の生徒は、その特別感のある実習授業を楽しみにする傾向があります。しかし、私は違いました。無作為に作られた作業グループ、知り合い間でのみ執り行われる作業分担、私は自然に輪の中に入ることもままならず、ただおどおどしながら見ていました。すると、同じ作業グループにいた女子生徒に「最悪。作業に参加しないのに、完成した料理を食べるつもりだ」と非難を受けました。私は顔が真っ赤になると同時に体が冷たくなりました。そして、「自分が恥ずかしい存在なんだ」と誤認してしまいました。当時の課題メニューがどんな味がしたのか、など思い出せませんが、「もう学校に行きたくない」「消えてしまいたい」という気持ちで溢れ、胃が押しつぶされるようになったことは鮮明に覚えています。何より、「普通の人が当たり前に楽しめること」を「共感して楽しめない」という自分の状態、状況が受け入れられず、辛い思い出の1ページに連ねることになりました。

家に帰って、母に「次回の調理実習を休みたい」と懇願しました。母は、元々、体調不良であっても「学校を休む」ということに寛容でないタイプだったので、次回の調理実習の欠席するだけでも、交渉にかなりの時間を要しました。この時、私にとって初めての登校拒否が成立しました。余談ですが、登校拒否を申し立てたのはこの件が初めてではありません、体育大会、学園祭、校外学習、全て泣きながら強制参加させられていました。楽しかった思い出はありません。登校拒否が受理され、束の間の安息を確保した私に母は言い放ちました。

「これ以降、休むことは絶対に許さない、甘えは絶対に許さない」

当時の私にとって、死刑を宣告されたような衝撃でした。

私の中にもあった「生存本能」

一連の事件のせいで「もうこの世から消えるしかない」という言葉が頭をよぎり、絶望しました。

しかし、絶望と並行して「周囲を見返してやりたい、自分一人でも乗り切らなければ」という悔しさと決意が入り混じったような思いが現れました。

これが所謂、「生存本能」だったのかもしれません。それから私は、調理実習の課題メニューのうちの1品をすべて自分で作れるように練習を重ねました。「そもそも、グループ作業に固執せず、成果を出せばいいのだろう」という結論に至ったのです。自宅で何度も試作し、イメージトレーニングしたので、課題メニューが「ニンジンのケーキ」だったことは覚えています。

そして、1週間後の調理実習を迎えました。作り方やポイントを暗唱できるぐらいまで理解度を深めたのにもかかわらず、授業開始直前までトイレに籠り、不安で泣いていました。

結果、担当したニンジンのケーキは合格点を貰い、なんとか授業を乗り切ることが出来ました。それでも、同じ作業グループの生徒達から、終始重箱の隅をつつくように、「あの工程を疎かにしているのでは?」「ケーキの生地を型に流し込む際に、油を塗っていなかったのでは?」などの疑いの目を向けられました。

当時の症状

当時はまだ、私にも周囲にも精神科に診てもらうという選択肢がありませんでした。それでも、高校時代に現れた症状で私の日常生活にひどく支障をきたしました。

症状としては、酷い不安や焦燥感、食欲が増えたことによる体重の増加、頭痛、腹痛、過眠、慢性的な息苦しさ、急に泣き出す、癇癪を起こすというものがありました。

行き辛さの中で学んだこと

調理実習での手持ち無沙汰を解消し、その場しのぎの市民権を得ましたが、作業に参加するしないに関わらず、私に対する周りの反応、評価は良い方向へ変わることはありませんでした。

私を突き動かした「生存本能」とは、「凌いでやり過ごして生き残っていくための手段」であり、決して、クラスメイトとの「『共存』していくための手段」ではなかったのだと思います。この時、私が本当に欲しかったものは、「自己努力でやり過ごしていける自分」ではなく、「周りと共存して一緒に何かを作り上げ、承認して貰える自分」でした。そういった寂しさを認めるてしまうとこの世のすべてに負けてしまう、そんな気持ちになり、受け入れることができませんでした。

このような体験が高校2年生の1年間だけでもいくつもありました。いつ、「登校拒否」になってもおかしくない状態だったと思います。朝、「学校に行きたくない」と駄々をこねる私を、母は拒否し続け玄関から追いていました。当時は、そんな母のことをひどく恨みました。

しかし、10年以上経過した今になって考えてみると、登校拒否を承諾することの方がどれだけ簡単だったろうと思います。毎日駄々をこねる私を叱責し、鼓舞し、母は粘り強く私に接し続けました。そのおかげで、私は強く希望していた美術大学への進学を実現することができました。歯を食いしばってでも登校し続けることができたからこそ、今に続くレールを敷くことができたのです。

母には一生頭が上がりません。

当時を振り返って

当時の私に「人を怖がりすぎて、トライ&エラーを怠りすぎたのでは?」と問いたいです。自分にとって都合の悪いことが発生した時、表面上では、自分を責めていても、どこかで「自分を承認してくれない周りが悪い」という被害者意識があったように思います。周りを責める半面、「今日はもしかしたら誰か私のことを気にかけ、話しかけてくれて、仲良くなれて、それで……」などと当てのない希望を抱いていました。その結果、「ひがみ」と「寂しさからくる希望」がぶつかり起爆し、症状を悪化させてしまったのです。

おわりに

クラスに馴染めない私が登校拒否を拒否された結果、誰にも頼ることができず1人で乗り切らなければという「生存本能」が活性化され、結果的に行きたい大学に進学するという大目標への切符を獲得することができました。

これからの私の課題は、コミュニケーションを諦めず、信頼できる人間関係を構築しておくことだと思います。簡単なことではないかもしれませんが、改善していく価値のあるものだと認識しています。それができると、今よりさらに広い視野を持ち、自分の様々な可能性に気づいていけるのではと思います。

ここまで読んでいただきありがとうございました。

もにょ

もにょ

自閉症スペクトラムな宇宙人。
デグー(ネズミ)3匹、猫1匹と同棲中。

自閉症スペクトラム障害(ASD)

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