障害と失敗~傘をさしていこう

発達障害

出典:Photo by Andy Grizzell on Unsplash

◀過去の記事:障害と失敗~自分は主人公じゃない

私はADHDとパニック障害、軽度のASDを持つ、いわゆる障害者です。

障害が診断されたのは最近ですが、障害特性は生まれ持ったものであり、様々な失敗をしてきました。

前回のコラムではそんな私の実体験のうち、高校から大学までの失敗や反省を紹介しました。

今回は就職から現在までの失敗や体験を生かした考え方について書いていきます。

このコラムが少しでも、似たような状況で悩んでいる方の助けになれれば幸いです。

大学中退後

大学へのモチベーションがなくなり、中退した私は就職のための資金作りに、地域のパチンコ屋でバイトを始めます。ちなみにパチンコ屋は賃金の高さで選びました。

ここには3か月ほど勤めていたのですが、多くのことを学びました。

詳細は割愛しますが、ここにはしっかり怒ってくれる上司がおり、自分より作業のできる先輩がいました。

ここで、ようやく自分は万能ではなく、人には得意不得意があることに気づきました。

あたりまえのことですが「頭がいい=仕事ができる」わけではないことに気づき、才能を活かせる自分に合った就職をしようと思いました。

そして、バイトをしながら自分の才能を活かせる就職先を色々探し、最終的に東京のゲームメディアの時給制契約社員に応募します。

就職の経験が無かった私は面接どころか、就職先の探し方もわかりません。そのため1社のみしか応募しませんでした。

採用には「文章の執筆」「一定の学力」「2度の面接」という3つの審査を乗り越える必要がありました。

前2つはよかったのですが、就職面接は1度も経験がなく、全然自分をアピールできていなかったように思います。

ただ、やる気だけは伝わったのか、ありがたいことに採用していただけました。

就職とADHD

東京で働くため、採用が決まった私は色々な手続きを行い、バイトで溜めたお金を全て使いひとり暮らしをはじめます。

念願のゲーム業界での社会人生活がスタートします。

主な業務内容は新しくリリースされたゲームをプレイし、そのレビューを書いてサイトに掲載するというものです。

この業務は自分のゲームの才能をいかんなく発揮できるうえ、勉強面での知識や言い回しも活きるため、天性の職業だったと今でも思います。

ただし、開始1カ月で問題が発生します。もっともひどかったのは、誤字などの細かなミスです。私はどちらかというと成果主義で「精度<完成」という思考を持っていました。

そのため、文章やリンクの見直しをあまりせず、上司に成果物を提出していました。

また「どうせ上司が確認するからそいいか」といういい加減さもありました。

しかしながら、サイトとして他者に発信する文章を書く以上、一番重要なのは失敗やミスのないことです。

場合によってはゲームの企業様から未公開情報をいただくこともあります。そんな情報が個人のミスで漏れでもしたら信用問題に関わります。

ここで注意されて以降、誤字などのミスがないように「公的な文章」などはしっかり見直しをするようにしています。

また、もう一つ「日常生活」にも問題がありました。

東京に出て、ひとり暮らしを始めるまでは、両親と暮らしていました。

ですが急にひとり暮らしになり、調理、掃除、洗濯などの家事、金銭や支払いなどの管理を自分でやる必要が出てきます。

私は特性上、スケジュール管理が驚くほど苦手で、掃除や洗濯、支払いなどを定期的に行うのが極端に下手でした。

そのため、部屋は1か月間散らかり放題、支払いは滞りまくり、酷い時はガスを止められそうになりました。

調理も億劫になり、コンビニ食品やレトルトなど、偏った生活を送るようになります。

パニック障害の再発

仕事に生きがいを感じながらも、どこか疲れている。そんな日々を4か月ほど過ごした時です。

ある日、出勤のため電車に乗り込んだ私は、突然目の前が揺れ、気分が急激に悪くなります。

以前発症したパニック障害が再発したのです。(初めての発症については、1記事目をご参照ください)

その日はお休みをいただき、家でしっかり休んだものの、以降は電車に乗ると同じ症状に悩まされるようになり、そこからほとんど会社に出勤できなくなります。

上司のありがたさ~人を敬う心

当時20才の私は、後が無くなったように感じ、仕事は辞められないという謎の義務感から、家を会社から1駅の場所に引っ越します。

少しの間は無事に出勤できたものの、1か月後にはパニック障害を再発します。今度は会社までのたった1駅の道が果てしなく遠く感じるのです。

結果、また会社への出勤が難しくなってしまいます。

しかし、この状況でも学んだことがあります。それは「人の温かさ」です。

この状況の私は正直上司からしたら「めんどくさい奴」だと思います。しかし、そんな中でも私を気遣ってくれたのが当時の上司です。

その上司は仕事、コミュニケーション、責任感、どこをとっても私より素晴らしい方でした。

ある時なぜ、そんなに有能な人が矮小な自分を気遣ってくれるのかを軽く尋ねました。

すると「○○さんは、どんな仕事でも積極的に動いてくれて、本当に助かる」とのことでした。

自分は、その時初めて「人は1つの能力ではかれるものじゃない」ということに気づきました。

以降、まずは人を"敬う"ことを第一に考えるようになります。このことは今でも念頭において行動しています。

ADHDの診断

上司に色々と取り計らっていただき、一時は自宅からリモートで業務を行っていたものの、それでも体調は戻りませんでした。

机の前で一定時間を過ごすことがありえないくらい苦痛に感じるのです。今思うと鬱だったのかもしれません。

そうして、業務をこれ以上続けることが難しくなり、12月に退社することになり、私は実家に戻ります。

精神科に通いながら、実家での療養を行うことになります。そこで、過去のエピソードを聞いた医師から「発達障害の検査を受けないか」と話をいただきます。

チェック項目に当てはまる点がいくつもあり、なにより自分自身もそうではないかと思い始めていたため、すぐに検査を受けました。

そうして私は、カウンセリングを含めた3回の検査を経て、ADHDと軽度のASDを診断されました。

余談ですが、発達障害は一般的に「知能の偏りが大きい」とされ、私の場合では知能指数は高いものの、集中力やワーキングメモリといった部分が極度に低くなっていました。「賢いから」で発達障害ではないと判断するのは本当に早計です。

1本目のコラムでは、学生時代の座右の銘が「やまない雨はない」だとお話しました。

しかし、私は今回の体験を通し、発達障害をはじめとした"やまない雨"があることを知ることになるのです。

就労移行支援事業所との出会い

2か月ほど特に生産性のないニート生活を送っていたある日、ネットでとある就労移行支援事業所を見つけます。

就労移行支援事業所(以下、事業所)とは、障害を持つ人が職業体験などを通して、障害について学び、スムーズに社会に出る、または復帰できるように支援する福祉サービスです。

私の見つけた事業所は、ネットでの評判も良く、なにより体験で通所した際の職員の接し方にとても好感が持てました。

ADHDと診断されたばかりの私は自分自身の「特性」とそれの「対処」について、全く分かりませんでした。

そのため、パニック障害の療養をしながら、その事業所への通所を決意します。

そして、1年ほどたった現在もその事業所に通っています。

1年で体調を崩したり、職員の方と真摯に話し合ったり……などなど、様々な体験をしました。(その話は別のコラムなどで、紹介するかもしれません)

その中で様々な学びを得ましたが、一番重要だと感じたのは「自発的に動くこと」です。

どれだけ職員が対策を考えてくれたとしても、実行しなければ意味がないのです。

また、障害のせいにして、全てを諦めていればなにも解決しませんし、就職なんてできません。

もし、このコラムを読んでいる人にもなにか困りごとがあれば、自分から動くことで解決に近づくかもしれません。

おわりに

3本のコラムを通して、私の生い立ちについて振り返り、様々な困難と障害について紹介してきました。

複数の障害を診断されましたが、私は人生を悲観してはいません。

もちろん、障害がなければもっと様々な成功があったかもしれません。しかしながら、様々な失敗や今まで知り合った人々と出会えなかったと思います。

もし、"障害"という「やまない雨」が降っていたとしても、これまでの様々な経験を糧に、"対策"という「傘」をさしながら、今後も前を向いて歩いていきます。

中学生時代にパニック障害を発症。一度は回復したものの、社会人になって再度発症し、その際にかかった精神科にて、検査を勧められ、発達障害と診断されました。以降悪戦苦闘しながらも、社会に適応しようと奮闘中です。

趣味はゲーム全般で、最近はカードゲームに力を入れています。

注意欠陥多動性障害(ADHD)

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