映画の中の障害者(第4回)「ジョーカー」

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Photo by Geoffrey Moffett on Unsplash

量産される「無敵の男」たち

今最も観られるべき映画、それはホアキン・フェニックス主演「ジョーカー」(2019年)ではないでしょうか。今年2022年7月、世界を揺るがす衝撃的なテロ事件がありましたが、それに至る容疑者の人生はあまりに悲惨なものでした。またそれに応答するかのように、2000年に起きた秋葉原での連続無差別殺傷事件の容疑者の死刑が執行されました(相模原障害者殺傷事件と同日7月26日)。近年このような「社会からこぼれ落ちた男たち」による犯罪が目立ちます。犯罪件数自体は驚くほど下がっているので、それゆえ目立ってしまうバイアスや宗教・家庭環境等、個別に違いはあるのですが、孤立を高めて「失う物のない無敵の人=ジョーカー」となるのは共通していて、それは現代を象徴する犯罪と言えるでしょう。その背景を踏まえて、本コラムでは映画ジョーカーが「障害者」であることにも目を背けず、作品が突きつけているものを考察していきたいと思います。 ※ネタバレあります ※テロに至るような「無敵の女」がほとんどいないのは興味深いです。友人女性は、生物的な違いももちろん、死んだ後の世間体とか気にするから無敵になれないのではと言ってました(それはそれで地獄な気もしますが…)。こちらも今後掘り下げてみたいです。

人間的で泥臭くダサい「ジョーカー」

大都会の片隅で、体の弱い母と2人でつつましく暮らしている心優しいアーサー・フレック。彼はコメディアンとしての成功を夢みながらも、母親との生活の為、ピエロのメイクで大道芸人をして日銭を稼ぐ毎日を送っていた。(googleサイトあらすじより)

しかし、次々に不幸が重なっていき、やがて暴力に目覚め、社会や世界を憎悪する「ジョーカー」になっていく様が描かれます。また彼は精神障害(統合失調症のような症状)とまた悲しい時に笑ってしまう障害を抱えていて、生きづらさの強い原因にもなっています。

初見、当初はクリストファーノーラン監督「ダークナイト」(2009年)のただ町が燃えてゆく姿を見たいだけの「理解不能な脱社会的存在=絶対悪」としてのジョーカーではなく、人間的で泥臭くダサいジョーカーに面食らいました。ただ、再度鑑賞して、人生に葛藤も成長もないサイコパスより、むしろこちらのジョーカーの方が悪として深みがあり、現代の格差問題など最上のエンタメと融合させた歴史に残る傑作と思えるようになりました。

人は「孤立」すると無敵になる

悲劇的な展開を示すジョーカーですが、彼がどうして「無敵」となったか変遷を整理すると、

・障害ゆえの日常生活の生きづらさ
・職を失う
・行政のコストカットでカウンセリングが受けられなくなる
・リスペクトしていたコメディ番組の司会者にコケにされる
・父親とおぼしき富豪に拒絶され殴られる
・好意を持っていた黒人女性からの拒絶
・母親らの幼少期の虐待により障害を負った事実を知る

上記のようにほぼ全編、疎外されて孤立に向かって突き進む男が描かれています。

映画ジョーカーの終盤、自分を侮辱した司会者を射殺してしまうのですが、犯行前のセリフが無敵の男たちの魂の叫びを代弁していると言えるでしょう。

俺が歩道で死にかけても踏みつけて歩くくせに。俺は毎日あんたたちとすれ違ってる。でも誰も俺に気づかない。

心を病んだ、打ち捨てられて孤独な男を、ゴミのように扱うと何を受け取ったか教えてやるよ!報いを受けるんだ!

以前、ルポライターの鎌田慧に社会学者の宮台真司が「秋葉原で殺傷事件を起こした加藤と、彼よりはるかに貧しく厳しい境遇に置かれた昭和の期間工たちとでは、どちらがキツかったんでしょう?」と尋ねたら、鎌田氏が即答で「加藤でしょう。人は孤独になれば、ちょっとしたことに耐えられなくなります」と答えたという話がツイッターで上がっていたのですが、大変事の本質を捉えています。7月のテロ事件の首謀者も映画ジョーカーに強く感情移入していて、自身のtwitter(現在運営よりアカウント削除)でも、

ジョーカーという真摯な絶望を汚す奴は許さない。

と共感を示しています。また、近年アメリカの議会襲撃事件など見るにつけ、世界規模で格差や孤立を感じる人間たちの怒りや被害者意識の高まりがインテリやリベラルの鈍感さ、コロナ渦なども相まって、のっぴきならないレベルにまで来ていると感じています。(物腰の柔らかかった人が鬱屈ゆえにヘイター化するキャラ変も散見され一層尚)

人間は「孤立」すると無敵となるし、処方箋は抱擁する共同体でしょう。しかし、ここまで経済が停滞して希望が見えない日本ではかつての(「三丁目の夕日」のような)共同体を再興することはなかなか困難が伴うように思われます。この問題意識は目新しいものではなく、すでに地方創生はじめ様々な取り組みは局所的に行われていますが、もっと人々をつなげる大きな「共通意識」のようなものが必要に思われます(戦前のように権力に利用されない形で)。そして、映画ではそのヒントとなる重要な障害者が登場します。小人症の同僚です。

あえて「周辺性」を自覚して

ジョーカーことアーサーは印象的なセリフを語りますが、特に刺さったのがこのセリフです。

君は僕にずっと親切にしてくれたただ1人の存在だ

映画で唯一と言って良い味方は小人症の同僚だったことは示唆的です。そのことが持つ意味を、障害を持つ我々は考えても良いのではないでしょうか?つまり、我々の多くは疎外など「痛み」を経験していて、それゆえに同じ痛みを抱えている人間へのセフティーネットに近いというシンプルな話です。自らの「周辺性」を自覚することの勧めです。

もちろん、この提言は、そもそも自身の生活で手一杯なほとんどの当事者にはさらなる負担を強いるものとして直ちに否定されてしまう類のものでしょう。疎外ゆえに攻撃的な人も多く、そもそも近年推進されている障害の有無に関わらず同様の生活を目指す「ノーマライゼーション」と対立するし、マイノリティ同士の傷の舐め合いにしか捉えられないリスクもあります。(前述の容疑者も宗教2世の自助グループなど絶対行かなかったでしょう)

ただ、その「痛み」が社会構造によるものならば、次世代にも続いていくわけで、沈黙はただれたシステムを温存させる呪いにもなり得ます。障害者はありのまま生きるのを目指すと同時に、もう少し無念の思いで死んでいった先人たちや次世代の痛みを考えて、「癒しと変化」を求めてゆるやかにつながっていく段階じゃないかと感じます。

具体的に何ができるかといえば、それこそ多様で個々が日々試行錯誤していくものでしょう。このようにネットで想いを綴るでもいいし、障害者ドットコムの川田夫妻のようなSNS のコミュニティでもいい。変革を求めて政治家になるでもいいし、職場のアーサー(ジョーカー予備軍)への接し方を変えるでもいい。しかし具体的なアクションより、まずは障害当事者約940万人が、自らの周辺性を自覚し(アイデンティティとして)ゆるやかにつながっている感覚を持つことが、「無敵の人=ジョーカー」が生まれない社会実現への一歩になるのではないか・・・「痛み」を個人を超えたものとして捉える、この「痛みの共同体」は、実は「痛み」のない人間は恐らくいないからこそ、障害当事者を超えて広がっていき、「癒しと変化」を促す可能性があるのではないかと考えています。

参考サイト

映画「ジョーカー」公式サイト
https://wwws.warnerbros.co.jp

NEWS ポストセブン 山上徹也容疑者のTwitterが閉鎖 明かしていた『ジョーカー』への感情移入「真摯な絶望を汚すやつは許さない」
https://www.news-postseven.com

MXU

MXU

新潟県在住の映像作家。内部機能障害。代表作「BADDREAM」(2018年)。
多様性をモチーフにした映像制作プロジェクト「NICEDREAMnet」で毎月作品を発表しています。
https://www.youtube.com/channel/UCBtMFlHg3tJidPZTrjRLoew

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