リスカについて私が知っている二、三の事柄

暮らし

画像:なり損ねコピーライター

リスカ、いわゆるリストカットと呼ばれる自傷行為は経験の有無はともかく、その言葉じたいは広く一般に浸透しているように思います。行為に及ぶ理由は人それぞれ異なることを踏まえた上で、ここでは私自身に関して自己を見つめ直す意味も込めてつらつら書いてゆきます。  

はじめての行為

それはただの戯れといいますか、気まぐれだったように思います。といいますのも随分と前のことですので今ではよく覚えていないのです。どうしても眠れない深夜でした。なんとなく、そう本当になんとなく試してみたくなって、妻が隣で寝ている布団から抜け出し、筆記用具などを入れているペン立てからカッターナイフを取り出して左手首を数回切りつけました。刃こぼれしていたからでしょうか、傷がつくだけで出血はほとんど無くただ痛いだけでした。カッターを元に戻して別の行為も試してみたところ、こちらも少々大きな物音を立てるだけにとどまり大事には至りませんでした。(何をやったかは想像にお任せします)

そうこうしているうちに物音と気配で妻が目を覚まし、一瞥して私が何をしていたのか察したようでした。「なに馬鹿なことしてんの。ここでそんなことされたら迷惑だし、どうしてもというんなら他所でやってちょうだい」そのときの妻の言葉です。ちょっとした思いつきからの試みが何かの拍子で完遂した可能性も皆無ではありませんから、妻のいうことはもっともでした。

この件で、自死するにも相応の手間ひまと体力を要することを実感してからは、頻?にもたげる希死念慮を成就させようとすることも、自傷することもありませんでした。    

二度目のリストカット

それから何年経ったでしょうか、ひとりで暮らしはじめて一年が過ぎた頃に二度目のリストカットをすることになります。それは最初の時とはまるで違った、ある種の強い衝撃に突き動かされてのことでした。

ネットフリックスが配信する某連続ドラマの最終回を観終わったあと、やるせない気持ちが昂じて涙がこぼれました。悲劇的な結末だったからではなく、むしろストーリーは典型的なハッピーエンドで、かといってそれに深く感情移入したが故の安堵の涙でもありません。逆境にもめげず幾多の困難を乗りえた末に主人公が成功を掴み取る姿にカタルシスをおぼえたのは事実であるにしても、私が心を揺さぶられたのはドラマにではなく現実に対してでした。

ドラマというのは基本的にはフィクションで、要するに作り話なわけです。しかし、生身の人間が役者として芝居を演じることそのものはリアルな現実です。脚本に書かれた台詞を覚え、演出家の指示のもと与えられた役を演じる俳優たち。演じる彼らにドラマを完結させた達成感や、そこへ至るまでの労苦やある種の勤勉さを見て取った私は、翻って自身のこれまで無駄に生きてきて人生で何も成していないこと、これからも何か成すことはないだろうと激しい自責の念にかられました。そんな自分を罰する意図があったのかもしれません。気がつけばカッターナイフで手首を二度切りつけていました。一度目の時と違い、真新しい刃で掻かれた傷から溢れ出す血を目にして我に返ったのでした。    

二度目のリストカット、その後

なかなか治まらない出血を数枚重ねたティッシュペーパーで傷口を抑えて止血し、少し落ち着いてから、とりあえずの応急処置として長い傷口に対して垂直方向に絆創膏を五枚並べて貼って覆いました。自宅には絆創膏の他にガーゼや包帯の類のものが無く、近くのコンビニに包帯だけはおいてありましたからそれを買って帰り、しばらく様子を見ることにしました。(夜の遅い時間だったのでドラッグストアはすでに閉まっていました)

翌朝になって絆創膏を?がして傷口を見ると、化膿しかけてるようでもないし、これなら何も貼らずに乾燥させた方が治りが早いだろうと、素人判断で絆創膏を貼り替えることはしませんでした。まだ長袖のシャツを着るには早い時期でしたので、袖口が傷口に触れることを気にせずに済みました。ただ、傷は傷痕として生々しく残っています。シャツの袖が傷口に触れないということは傷口が隠れないということでもあります。外で誰かと会う必要がある時は、前日に買った包帯を巻けばむしろ目立つかもしれないけれど、それでも直に傷痕を見られるよりはその方がいいだろうと独りごち、クリニックの通院時には包帯を巻いていきました。 

リスカはSOSのシグナル?

専門医が挙げるリストカットの原因の一つに、孤独感や強いストレスで傷ついていることを周囲の人にわかってほしいからというのがあります。

包帯を巻きクリニックへ行った時、目ざとくそれに気づいた受付の看護師さんに「手首どうしたんですか」と尋ねられた時は少々うろたえてしまって「いや、まあちょっと色々ありまして」と言葉を濁すにとどめ気まずい思いをしたのですけれど、他方でほっとした気持ちにもなっていたのです。気づいてくれた人がいる。自分を見てくれている人がいる。そんな心境でしょうか。(ちなみに実家の両親は数時間一緒にいても手首の包帯に気づくことはなく、そうかといって見て見ぬふりをしているとも普段の言動からして想像しづらく、一方は他人でこっちは肉親なのに、この差は何なんだろうと考え込んでしまいました)

先に書いたように衝動に駆られてやったわけですから、手首に切りつける瞬間に自分が抱え込む辛さを誰かにわかってほしいからとの自覚はありません。(深層心理でどう思っていたかは分かりません)しかしながら、気づいてくれた人がいたことで救われたような気になれたのですから、苦悶する心情を誰かに吐露したい気持ちがあったことは、結果としてそう言えるかもしれません。

三度目のリストカット

錆びていない鋭利な刃物で、身体の一部分であれ切りつければ当然ながら出血しますし、あとの処置が面倒なことは知った今は、三度目は当分の間無いだろうと思っています。ただ、手首の傷痕を見てはなぜか心が穏やかにもなるので、徐々に薄くなっていってるこの痕が消えかければやってしまうかもしれません。当分の間というのはそういう意味です。自傷行為が必ずしも自死願望と一致するわけではなく、無意識に発せられる心の救難信号だとすれば、それ自体は悪いことではないと個人的には思っています。(良いことでもありませんが)

精神的に健全な人からすれば理解し難いことでしょう。しかし、現実に生き辛さを抱えて苦しむ人達が、決して少ないとは言えない一定数いること。個人々々が集まり社会を構成している以上、誰しもが他人事と一蹴して済ませられるものではありません。もし済ませられるとすれば、そんな社会の方こそが病んでいると言えるのではないでしょうか。

なり損ねコピーライター

なり損ねコピーライター

リーマンショック後の不況のあおりを受けて年々劣悪になっていく職場環境と労働待遇によるストレスからうつ病を患って早十年。
紆余曲折を経て現在は在宅でも就労可能なWEBライターを目指して慣れないPCと格闘中。

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