知的障害児施設で起こった大冤罪裁判、甲山事件

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Photo by Mohammad Rezaie on Unsplash

1974年3月、兵庫県西宮市に当時存在した知的障害児の入所施設「甲山(かぶとやま)学園」で12歳女児と12歳男児2人の入所者が浄化槽で溺死しているのが見つかりました。事件性を認めた警察は一人の職員を逮捕し、精神的に追い詰めて自白を強要します。25年に及ぶ大冤罪事件の幕開けです。

職員は一度、証拠不十分として不起訴処分を受けます。しかし、納得のいかない遺族が不服申し立てをしたことで事態は一変し、検察は有罪判決へ持ち込もうと躍起になり始めました。アリバイを証言した園長や同僚ともども起訴し、1999年に全員の無罪が確定するまで抵抗を続けた様は、何かに取り憑かれたようでした。

知的障害者への偏見もこの事件を構成する重要な要素でした。「どうせ知的障害者が」という偏見が、事故の可能性や供述の信憑性を揺るがしたばかりか、別の民事訴訟中に場外乱闘ともいえる事態を引き起こしたのです。

アリバイがないので

昭和が40年代から50年代へバトンタッチする間際だった当時の時代柄なのか、警察の捜査は最初から杜撰で横柄で大雑把なものでした。まず警察は、浄化槽の蓋が17kgと重かったのを理由に最初から殺人事件と断定していました。「重い蓋を子どもが、ましてや知的障害児に動かせる筈がない」と思い込んだせいで、事故の可能性すら考慮されなくなったのです。

警察は施設内の大人による犯行として、連日事情聴取を行います。施設内に居座ったり脅しをかけたりと、人権やプライバシーなど歯牙にもかけない捜査ぶりだったそうです。そして遺体発見の翌月、死亡男児への殺害容疑で一人の職員が逮捕されました。(この逮捕された職員を便宜上Eさんと呼称します。)

Eさんが逮捕される決め手となったのは、単に目立ったアリバイがないことだけでした。そこに決定的な証拠などある筈もないので、警察は「自白」を引き出すことだけに執心し始めます。長時間の取り調べと口八丁の精神攻撃に疲れ果てたEさんは、逮捕から10日後に「自白」してしまいました。こうした自白の強要は、様々な冤罪事件でよく見られることです。

Eさんの自白は「2人を死なせたのは私です」というだけのものでしたが、ここで既におかしい点があります。実は殺害事件として捜査されていたのは死亡男児の件で、2日前に亡くなっていた死亡女児のほうは事故死と見られていました。この後の供述調書も、自白と否認で揺れ動く不安定な内容となります。

逮捕から21日後、Eさんは処分保留で釈放され、翌年9月には証拠不十分での不起訴処分を下されています。この時の神戸地検にはまだ良心があったのか、「供述に筋道が通っておらず、自白と見做すことは出来ない」と説明していました。

釈放から3か月後、Eさんは国と兵庫県を相手に国家賠償請求訴訟(国賠訴訟)を起こします。これは自らの潔白を真に証明するための裁判でもありました。国賠訴訟では不足していたアリバイも埋まり、順調に進んでいたとされています。

収まらない感情

一方、死亡女児と死亡男児の遺族は、甲山学園の運営元である社会福祉法人甲山福祉センターを相手取る民事訴訟を起こしていました。この裁判自体は遺族側がアッサリ勝訴して終わっているのですが、途中で場外乱闘のようなものが起こっています。

裁判中に被告である福祉センター側が、「知的障害児が死んで苦労から解放されたんだから、損害賠償を求めるのは筋違いだ」と発言しました。これに日本脳性まひ者協会や関西青い芝の会などが反発し、同センターへ座り込みをするなど一触即発の状態になったといいます。福祉センター側の失言は、その軽はずみさと反響から「回転寿司ペロペロ動画」に通じるものを感じますね。

そして遺体発見から1年半が経った1975年10月、死亡男児側の遺族が検察審査会へ不服申し立てを行いました。感情が収まらなかったのでしょうか。結果的に、この不服申し立てが検察を妄執へと駆り立て、Eさんの人生をさらに20年も奪うきっかけとなります。

やがて不起訴不当の決議が出され、その年の暮れから神戸地検は再捜査に動き出します。言い換えれば、Eさんの釈放という「過失を取り返す」ために、何としても有罪判決を勝ち取らねばならない立場となった訳です。このため頼みの綱としたのは、逮捕時の自白と服の繊維、そして入所者たちの目撃証言でした。

さて、国賠訴訟の方はEさんへ有利に動いていました。不足していたアリバイが同僚のIさんとK園長の証言によって埋まったのです。男児の死亡推定時刻、Eさん・Iさん・K園長の3人は事務室におり、K園長が電話を受けて20時15分に出発したという証言でした。電話の相手も判明しているので、アリバイの証明は時間の問題となりました。

ところが、1978年2月末に3人とも逮捕・起訴されたことで審理はストップしました。IさんとK園長は「偽証罪」に問われており、Eさんに有利な証言をしただけで同じく20年以上も裁判させられる羽目になります。また、初公判の前に保釈も受けています。容疑を否認し続ける被告が保釈されるケースは稀なのですが、何を思って保釈を認めたのでしょうか。

「どうせ知的障害者の証言だから」

裁判の際、検察側は「直接証拠がないので、間接証拠を積み重ねて有罪を立証する」という弱気な発言をしていました。自白は神戸地検が自ら否定しています。唯一の物的証拠となる着衣繊維も、担当の警察官が自宅に持ち帰るなど管理が杜撰だったため証拠として使い物にならなくなっていました。

検察にとって頼れるのは「目撃証言」しかありません。入所者5人から目撃証言を必死に集めましたが、実態はそれぞれの日常場面を繋ぎ合わせて検察の想定する「事件当日のシナリオ」に当てはめたものに過ぎませんでした。その日の昼食すら曖昧な中で、コラ画像のように継ぎはぎされた「記憶」は、虚実も矛盾も分からない不確かなものです。

念押しの為検察は「鑑定書」を出しました。その内容は「どうせ知的障害者だから、供述に矛盾や変動があっても仕方ない」「どうせ知的障害者だから、他人から教えられただけの事柄を記憶できない」「どうせ知的障害者だから、作り話など出来ない」という偏見にあふれたものでした。裁判で勝つために、知的障害者の属性を盾にして証言への疑問を牽制しようとしたのです。

初公判から7年半後の1985年10月17日、懲役13年の求刑に対し神戸地裁はEさんに無罪判決を言い渡しました。検察の挙げた数々は証拠に値しなかったのです。しかし検察は頑固にも控訴し、裁判は遂に平成へもつれこんでしまいました。

1990年3月、大阪高裁は「差し戻し判決」を下し、弁護団は上告するもこれを棄却されてしまいます。1993年2月に差し戻し審が始まり、5年後の1998年3月に2度目の無罪判決が下ります。この間、甲山事件をモデルにした小説への訴訟が進んでおり、一審二審ともに著者側が敗訴する出来事がありました。実はこの辺りで世論はEさん側へ傾いており、しぶとく控訴する検察に対し批判の声もあったそうです。

1999年1月に始まった第2次控訴審は、たった2か月で審理を終えるスピード結審でした。Eさんへ同情的になっていた世論を鑑みて結審を早めたと言われています。同年9月にEさんは3度目の無罪判決を受け、大阪高検は懲りたのか上告を断念しました。IさんやK園長も相次いで無罪判決が確定し、遺体発見から25年半後にようやく決着がつきます。逮捕当時22歳だったEさんは既に48歳となっていました。

Eさんは無罪確定の翌年に、中断されていた国賠訴訟を取り下げる決定をしています。元々は身の潔白を証明するための訴訟だったので、必要がなくなったということなのでしょう。神戸地裁は、その国賠訴訟の請求を大きく上回る約2090万円をEさんに支払う決定をしました。裁判費用や勾留に対する補償という名目だそうです。

終わってみれば、21年に及ぶ長期裁判にしては無罪判決しか出なかった、裁判史において極めて異例なケースとなりました。その主因が検察側の私情なのですから、検察にとっても恥ずかしすぎる裁判だったと思います。

間違いと継ぎはぎだらけ

警察は当初、「知的障害を持つ子どもに17kgの蓋を動かせる訳がない」との理由で事故死の線を外していましたが、実はその前提が既に間違っていました。浄化槽は入所者の遊び場となっていたと職員日誌などから判明しており、内部には遺体のほかに石ころやボルトや下着など雑多な小物が入っていたのです。

つまり、入所者は浄化槽の蓋を開けて色々投げ込んで遊んでいたことが示唆されている訳です。蓋は何人かで協力すれば動かせるようで、日常的に開け閉めしていたという、警察の見立てとは正反対の実状がありました。そもそも、上は24歳まで入所していたので、捜査の絞り方としてもおかしかった訳です。

また、第一審で証人として呼ばれた入所者の一人が、他と違うことを少しずつ口に出していました。なんでも、「女児が行方不明になった日、自分と女児含めた5人が浄化槽で遊んでいた。蓋を開けて女児の手を引っ張ったら、誤って落としてしまった。その時にEさんはいなかった」とのことで、少なくとも死亡女児に関しては事故死(または過失致死)だったうえ、Eさんは関わっていなかったと供述しています。

この供述が真実であれば、警察の捜査は最初から間違っていたことになります。知的障害者への偏見に根差した捜査で誤認逮捕し、それに検察が縋りついて継ぎはぎしていったのであれば、完全に無為な25年を過ごしていたと断じざるを得ないでしょう。

死亡男児の方は迷宮入りとなってしまいましたが、これは警察が偏見と怠慢によって自ら迷宮入りにさせてしまったようなものです。「どうせ知的障害者が」などと考えず多角的に捜査していれば、昭和のうちに違った結末を迎えられたかもしれません。

なお、甲山学園は1980年に閉所されており、建物自体は病院として再利用されたそうです。


参考サイト

甲山事件
http://www.maroon.dti.ne.jp

「冤罪・甲山事件」はこうして起きた
http://www.jca.apc.org

遥けき博愛の郷

遥けき博愛の郷

大学4年の時に就活うつとなり、紆余曲折を経て自閉症スペクトラムと診断される。書く話題のきっかけは大体Twitterというぐらいのツイ廃。最近の悩みはデレステのLv26譜面から詰まっていること。

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