「トロッコ問題」の本来の姿、思考実験とは
暮らし
「暴走して止まらないトロッコが1台、線路の先には5人の作業員が作業している。暴走を止める術はないが線路の切り替えは出来る。しかし、別の線路の先にもまた1人の作業員がいる。そのまま5人の道へ進めるか、1人の道に変えるか、決めるのはあなただ」
要するに止まらないトロッコから5人を見殺しにするか1人を犠牲にするかを問うのがかの有名な「トロッコ問題」にあらせられます。死のトロッコが行く先を自分で決めるというシチュエーションは、しばしば下品な改変を受けたり問題そのものが下品だと忌み嫌われたりと散々な反応です。
本来、トロッコ問題は「思考実験」の題材として生まれました。思考実験とは、架空の状況を頭の中で設定し推論を重ね結論へと導く実験です。たかが架空と侮ってはならず、これを通じて自分の思考軸を振り返ったり相手の思考軸を尊重したりといった感性を育むことも出来ます。尤も、そのような深い思惑は理解されずに電車ごっこの亜種として大衆に消費されたのが今の姿なのですけれども。
中絶への議論から生まれた
1967年、イギリスにてトロッコ問題は産声を上げました。きっかけは人工妊娠中絶についての論争。カトリック神学では予てより中絶は認められていなかったのですが、中絶しないと母体が危険だという状況や非合法の中絶による医療事故に対して矛盾を抱えていました。そこで哲学者のフィリッパ・フットは「母体に危険がある中での中絶は認められるべきか」と問い、将来また産む母体を救うか胎児を守るかの選択をトロッコ問題に喩えたわけです。転じて、モラルジレンマに陥ったとき何を優先するか問う思考実験となりました。
トロッコ問題での選択は、主に「功利主義」と「義務論」に分かれています。線路を切り替えて5人を助け1人を犠牲にするほうは功利主義という、1人より5人生きるほうを是とする考え方です。対して線路を切り替えず5人を見殺しにする方は義務論となり、どんな事情でも自分から他者を犠牲にしてはならないという考え方になります。自分の意図によって少ない犠牲でより多くの数を生かすか、手を汚さない代わりに予見された結果を受け容れるか、その選択となる訳ですね。
この質問には様々なアレンジがあり、有名な改変はアメリカの倫理学者ジュディス・ジャーヴィス・トムソンによる「歩道橋と太った男」です。なお、フットの例え話にトロッコ問題と名付けたのもトムソンによるものです。
「暴走して止まらないトロッコが1台、線路の先には5人の作業員。線路をまたぐ歩道橋にあなたと太った男は立っている。このままでは5人とも轢かれるが、太った男を突き落とせばその命と引き換えにトロッコを止められる」
場合によってはコンプラ意識からか「大荷物を背負った男」になっていますが、とにかく露骨に手を下しているのが従来との違いです。フットの問いでは1人を犠牲にしていた(線路を切り替えた)人の多くが、トムソンの問いでは5人を見殺しにする(男を突き落とさない)ことを選んでおり、直接殺めることへの抵抗感が強く出ていました。
問題の内容やシチュエーションによって答えが揺れ動き変わっていくこと自体は決して恥ずかしいことではありません。なぜならば、これらの質問は「ジレンマ」でもあるからです。自らの思考軸だけでなく、その揺らぎすらも見つめ直せるのが思考実験の妙味でもあります。
大衆の手に渡った弊害
日本では2010年ごろからテレビで取り上げられるなどして有名になりましたが、あまねく大衆の手へ渡ったことによる弊害はすぐに表れ始めました。ジレンマを前提とする高度な思考実験など理解されず、下品な改変や不誠実な回答で溢れかえることとなります。「国民栄誉賞1人と弱者男性100人」なんて改変は、もはやジレンマを問うのではなく出題者自身がトロッコになる妄想でしかありません。
「作業員を線路から退避させる」
「圧倒的なパワーでトロッコを破壊する」
「トロッコや作業員の管理側に責任を問う」
「複線ドリフトで全員轢いてしまう」
「こんな問題を出す奴が轢かれて死ねばいい」
「そもそもこんな事態に居合わせる筈もないので考えても無駄」
これらのような二択を拒否する回答は前提への否定であり、思考実験の場においては質問へまともに向き合わない不誠実なものとして扱われます。「全員助けたい」というのは、この場では慈悲や博愛などではなく単なる逃げでしかありません。
トロッコ問題そのものに対する批判も多く上がりました。「なぜ轢き殺す必要があるのか」「なぜどちらかを犠牲にせねばならないのか」「太った男というのはデブは死ねというメッセージか」といった批判は、すぐ死ぬとか殺すとか出てくる極端な例え話への反発としてなら理解できる部分もあります。
飽くまで思考実験であった筈のものがこのような扱いを受けるようになったのは、元々哲学者や倫理学者が内輪でやっていたことを巷間に持ち出した弊害と言えるかもしれません。しかし、トロッコ問題のような露骨なものでないにせよ何を重んじ何を捨てるかの「トレードオフのジレンマ」は現実世界にも多く転がっています。
誰もがトレードオフのジレンマに直面する場面と言えば、選挙です。自分の要望を全て叶えてくれる政党や候補者など存在しない中で、悩み抜きながらも理想に最も近い候補を選び投票することは、まさにトレードオフであると言えるでしょう。投票に行かないことさえも、未来の当選者による取捨選択へ委ねる形でのトレードオフとなります。(職場などの意向で投票先を選べない境遇の人は、ここでは考慮しないものとします)
「晶文社スクラップブック」のコラムではこう書かれています。
「トロッコ問題をいくら否定したところで、トレードオフのジレンマが世界から無くなるわけではない。『パイを大きくせよ』と唱える人も必要かもしれないが、パイの切り分け方を考える人も必要だ。だからこそ、わたしたちはトロッコ問題について考えなければいけないのである」
トロッコ問題から期待されること
一方、トロッコ問題が思考実験である以上は何らかのトレーニング効果も期待できます。何が鍛えられるのかについては「教育文書NEWS」のコラムで3つ触れられています。
ひとつは、自分の思考軸や価値観を見つめ直すことです。答えについて迷ったり揺らいだりすること、出題によって一貫性を損なうことは恥ではありません。自分の思考軸がぶれていくことを実感し、本当に大事にしている価値観について見つめ直すことは、内面を磨くことでもあります。
ふたつは、社会への解像度が上がることです。価値観が出来上がっていれば社会の様々な問題に対し意見を持てますし、逆に社会問題への様々な解釈に触れていく中で自分の価値観を見直すこともあります。自分の軸と社会への眼を行き来することで、的外れな意見が減っていくかもしれません。
最後は、他者の価値観を尊重し歩み寄れるようになることです。何を重んじどう応えるかの価値観は人によって違います。これを「多様な意見」「価値観は人それぞれ」で片づけてはいけません。違った価値観の背景にあるその人なりの正義を知り、違う者同士で互いに歩み寄ることが他者理解となります。とりもなおさずそれは、共生への第一歩となるでしょう。
尤も、これらのトレーニング効果は理想論に過ぎるかもしれません。自分の価値観を固めるだけでなく、相手の価値観も尊重し歩み寄ることは非常に高度で困難な活動です。少なくとも、共感と分断を是としエモーショナルに言いたい放題するネット言論の場では絵空事でしかないでしょう。現にトロッコ問題は「おもちゃ」にされて久しいのですから。
参考サイト
「トロッコ問題」~思考実験を活用した公共の授業~
https://www.kyoiku-tosho.co.jp
トロッコ問題について考えなければならない理由
https://s-scrap.com
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