映画の中の障害者(第18回)映画『急に具合が悪くなる』

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Photo by Geoffrey Moffett on Unsplash

今回は、濱口竜介監督の新作『急に具合が悪くなる』を取り上げます。舞台は介護施設で、ケアを真正面から描き、自閉症の障害者も登場するなど本コラムで取り上げないわけにいかない作品です。 
濱口監督といえば、『ドライブ・マイ・カー』や『悪は存在しない』など、名実ともに日本映画界を代表する世界的巨匠です。私自身、監督の学生時代の作品を含めてほぼ全てを追いかけてきたし、一昨年『急に具合が悪くなる』を手がけると知って、すぐに原作を手に取りました。

同書は、がんの転移を経験しながら生き抜いた哲学者・宮野真生子さんと、人類学者の磯野真穂さんが交わした20通の往復書簡です。生と死、そして「世界とは何か」という根源的な問いへの決定的な答えが綴られた、誇張なく人生観を変える一冊でした(必読です!)。「濱口監督の世界観にぴったり」と盛り上がる一方、この「往復書簡」という形式をどのように映像化するのか、最初は想像がつきませんでした。
そして迎えた公開日。3時間超という長尺に備えて前日から体調を整え、劇場へ。ここ最近はドーパミンを過剰放出させる作品ばかり観ていたので(『ユーフォリア』や『シラート』など)、その対極にある本作の鑑賞は、心身ともに深くデトックスされながらも、光の中へ背中を押されるような得難い時間となりました。

ケアとは何か?――「ユマニチュード」という哲学

舞台はパリ郊外の介護施設「⾃由の庭」です。施設長のマリー=ルー・フォンテーヌは、入居者を「一人の人間」としてケアすることを理想に掲げながらも、深刻な人手不足やスタッフの無理解に苦悩しています。そんな彼女が出会うのが、がん闘病中の日本人演出家・森崎真理(マリ)さんです。同じ響きの名前を持つ二人は、偶然に導かれるように交流を深めていきます。しかしある時、真理さんの具合が「急に」悪くなります。病の進行とともに二人の関係は劇的に深化し、互いの魂を通わせていく――これが本作の筋立てです。

本作の核心にあるのは、フランス発の認知症ケア技法「ユマニチュード」です。「見る」「話す」「触れる」「立つ」という4つの柱で相手の人間らしさを尊重するこの技法の価値と可能性を、映画の中を通じて体験できる作りにもなっています。(この技法がさらに広がっていく、大きなきっかけになるのではないでしょうか)

また、劇中では真理さんによる資本主義社会についての長尺の講義シーンがあります。そこで語られるのは、現代社会が利潤を追い求めるあまり「他者をモノのように扱う」構造になっているという事実です。本作は、一つの介護施設というミクロな舞台を借りながら、生産性の有無で人間の価値を測ろうとするマクロな社会に対し、監督が真っ向から抱く違和感(というか「怒り」)を静かに描き出していきます。

近づいてみれば、誰もまともな者はいない

映画の舞台としてはお世辞にも「映える」とは言えない介護現場に光を当て、そこで働く人たちへのリスペクトに満ちた描き方に粋を感じます。

また、重要なサブキャラクターとして登場する自閉症の青年(黒崎煌代さん)の存在も見逃せません。これもまさに「生産性の有無」を超える社会の可能性を示すモチーフです。私は監督の代表作『ドライブ・マイ・カー』における「ろう者」の都合よい描かれ方に、強い違和感を持っていたので、初めは不安を覚えました。

しかし、本作における黒崎さんは当事者が演じているのかと思ったほど役に血が通っています。時間をかけたリサーチに基づく的確な演出も、逆風の時代にある「多様性」という言葉の価値をもう一度内側から押し広げてくれるようで、胸が熱くなりました。
劇中、真理さんが演出する一人芝居には「近づいてみれば、誰もまともな者はいない」というタイトルが掲げられています。これはイタリアの精神医療改革を主導した精神科医、フランコ・バザーリアの周辺から生まれた言葉です。濱口監督自身、インタビューで「精神病者を人間として扱うか」という難題に命を捧げたバザーリアの存在に強く惹かれたと語っています。私も勉強会などで知ってはいましたが改めてネットで調べてみました。

1793年、フランスのフィリップ・ピネルが精神科病棟の患者を鎖から解放したことが、近代精神医療における人権思想の出発点でした。そこから約200年後の1978年、イタリアでバザーリアらの尽力により、世界初の精神病院廃絶法(通称バザリア法)が成立します。今でこそ、精神障害者が地域の中で共に暮らす風景は(いまだ軋轢はあれど)市民権を得つつありますが、かつては絶対に「不可能」だと切り捨てられていた景色だったのです。

身近にあふれる「かつてはなかった風景」

もちろん、ニュースを見れば医療も福祉も課題は山積みで、おまけに温暖化や戦争など不穏な未来予測ばかりで「やっぱ安楽死だろうか」と暗い気持ちになります。それでも鑑賞後、改めて周りを見渡すと、(アラフィフの私の)子どもの頃にはなかった風景が広がっていることに気づかされます。

今では当たり前のように地域に根付いている障害者の通所施設、茶の間などのコミュニティ、細やかな介護保険制度。これらはすべて、かつては存在しなかった風景や制度です。かつて「家族の面倒は家族が見るべきだ」と頑なに信じていた我が家も、祖父の介護でデイサービスを利用したことで、その負担が大きく軽減されたことをよく覚えています。私自身もまた、日本の医療制度や現場の人たちのおかげで今こうして生きているのだと、難病を患った10代の頃から痛感し続けてきましたし、年々環境は改善されていることを実感しています。(例えばかつては3分の診察に半日待つなど当たり前でしたが、今は長くても1時間くらい)

本作に登場する人々は、誰もが優しく誠実で利他的です。一見すると、どこかファンタジーのように美しすぎる世界に見えるかもしれません。しかし、私たちの身近にあふれる「当たり前の日常」は、彼らのような市井の人たちが時にぶつかり合いながらも、一つずつ地道に「不可能」を「可能」に変えてきてくれた営みの結晶です。

私たちが日々を生きる中でも、社会の「不可能性」に打ちひしがれる場面は数多くあります。「諦めること=手放すこと」が大人の現実主義なのかもしれません。それでも本作は、「人間の尊厳を守るという可能性だけは、絶対に手放してはならない」と、観客の耳元で静かに、しかし力強く語りかけてきます。そして、日々、ささやかな抵抗を積み重ねていけば、いつかそれは『奇跡』のような現実へと変わる――そんな希望を、もう一度信じてみたくなる作品です。ぜひとも劇場でのご鑑賞をお勧めします。

参考リンク
『急に具合が悪くなる』公式サイト
https://www.bitters.co.jp/soudain/
『急に具合が悪くなる』書籍
https://www.shobunsha.co.jp/?p=5493
インタビュー|ヒルズライフ HILLS LIFE
https://hillslife.jp/culture/2026/06/18/all-of-a-sudden/
文藝春秋PLUS公式チャンネルインタビュー(動画)
https://youtube.com/watch?v=hSSuvdeeEWA&si=YUSojL_Jifj0kPiL

MXU

MXU

新潟県在住の映像作家。内部機能障害。代表作「BADDREAM」(2018年)。
多様性をモチーフにした映像制作プロジェクト「NICEDREAMnet」で毎月作品を発表しています。
https://www.youtube.com/channel/UCBtMFlHg3tJidPZTrjRLoew

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