「みい山」の須崎先生、福祉現場から見ると?
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「みいちゃんと山田さん(みい山)」がアニメ化するということで、色々な意味で大盛り上がりを見せています。アニメ化自体についての話は後に預けますが、今のところ私はこう考えています。
「本音では世も末だなと思う。しかしいかなる作品でも、個人的な感情や好悪や快不快で表現の自由を妨げるのは人として間違っている。ならば作品を観る受け手のレベルに委ねるしかない。まるでアダルトビデオで恋愛を学んだつもりになったような者が現れれば、その時に考えよう」
それで、同作品には「須崎先生」というキャラクターが序盤の過去編に登場します。須崎先生はみいちゃんの小学校時代の担任だった若い女性教師。みいちゃんが通常学級ではついていけないことを早々に察知し、保護者に支援学級への転入を提案しています。しかしみい母は激昂して面談を拒絶、みい祖母も「近所の評判が怖い」と拒否し、みいちゃんを療育へ繋ぐ「蜘蛛の糸」としての役割を果たせずに終わりました。
須崎先生は善良な大人としてデザインされたと作者自身が語っており、読者の一部からは「最良の提案をしたのに蹴られた挙句、クレームまで入れられた可哀想な人」「みいちゃんの将来を最もよく考えていた作中屈指の善人」「勇み足で終わったけど熱意はあった悲劇の若人」と好意的な評価を受けています。或いは、「みいちゃんの家族を療育から遠ざけるための正論マン」「逆に選択肢のミスを誘う舞台装置」にも見られています。確かに、一般論としても神の視点としても、みいちゃんを適切な療育へ繋いでいれば後の散々な人生は無かったかもしれません。
ですが、障害福祉などの現場や当事者から見ると須崎先生への解釈は異なってきます。というか、完全に「無能な働き者」扱いです。実際に作者との対談が巻末にまで載っている専門家の意見にはこう記されています。
「保護者への説明にもっと時間をかけるべきでしたね。急に『お子さんに障害がある』と言われても信じたくないものです。そういう話は保護者と信頼関係を作ってからやるべきであって、そうでないと『受容』は出来ないんです」
要するに、作者の考えた善良な大人に「言うほど善良か?」と真っ向から疑問を呈した訳です。更に現場としての意見はこれだけに留まりません。「わかり手」こと小山(狂)さんは自身のnote記事の有料部分を特別にXで公開ポストし、実際に知的障害者支援に携わる専門家の意見を載せました。その専門家も須崎先生をボロクソに酷評しています。
「もし同僚や部下が須崎先生と同じことをしたら厳重注意します。そのくらいダメです。彼女の何がダメかというと、障害告知を軽く考えすぎなところ。『お子さんに障害があるかも』と告げるのは本来、慎重にやらねばならない。保護者にとって刺激の強すぎる話をたった1ページでまとめて言うもんだから、みい母でなくても素直に従う気にはなれませんよ」
「まずは時間をかけて少しずつでも信頼関係を築くこと。初対面で検査だの支援学級だの言い出すなんて、まともな教師なら絶対にしない」
こういう本職からの意見が加わると、須崎先生の姿も俄然変わって見えてきます。保護者を呼び出して早々に「認知や言語の遅れがみられる」「知能などの検査を受けてみては」「なんなら支援学級への転入も」と、一つだけでも受け入れがたいのにトリプルパンチを仕掛けてくるのは、確かに「ヤバい奴」ですね。みいちゃんの小学校時代というと、2000年前後の田舎という環境になる訳ですが、それが言い訳になるかどうかは微妙なところです。いかに正論であろうと「ありのまま」では聞き入れて貰えない厳しさは、時代も場所も問わず共通していますので。
最後に自分の過去話なのですが、1990年代後半の田舎という似た環境で幼稚園の頃に児童相談所でその手の検査を受けたことがあります。診断が出た大学時代と違い、当時は何ともないという評価だったのですが、問題は検査を受けるきっかけでした。後で親から聞いた限りでは、担任に命令されて渋々行ったという裏話があったそうです。その担任は須崎先生とは逆に、数年後に定年を控える程度の年齢だったのですが、何かしら齟齬はあったのかというと思い当たる節があったりなかったりします。現実のセンセイだと自分の都合で支援学級に飛ばしたがるような、須崎先生未満の輩だって皆無ではないのでしょうね。


