なぜ「邪悪な健常者」は描いてよくて「邪悪な障害者」を描いてはいけないのか

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Photo by Kawê Rodrigues on Unsplash

誘拐事件の扱いについて日本中へ猛省を強いた「吉展ちゃん誘拐殺人事件」の犯人である小原保は足が不自由だったそうですが、映像作品や再現VTRなどにそれを反映していたものはあったのでしょうかね。

いま世の中にはこんな問題提起があります。「なぜ『邪悪な健常者』はいくらでも描けるのに『邪悪な障害者』になると差別だ偏見だと罵られまともに描けないのか」と。

邪悪とまではいかずとも、無能であったり傲慢であったり意地悪であったりと何かしら宜しくない要素がつくだけで「偏見の助長」がどうのこうのと言われかねないのが現代の環境です。「障害者=悪」の価値観で描いているならまだしも、特性と性分の分別をつけないままあれもこれもダメだイヤだとクレーム三昧が罷り通るならば、それこそ「腫れ物扱い」という差別的対応に繋がります。

発信する側に気を付けるべき点が無いとまでは言いませんが、受け止める側のリテラシーがどの程度かを操ることは出来ませんし、悪し様に受け取って武器にしたり怒りの燃料にしたりする低レベルな受け手だけ避けることは不可能です。だからといって、受け手を信頼せず日和ってしまうのも違う気がします。受け手のレベルが低いから無難な表現しかできないというメッセージを伝えるならまた別でしょうけれども。

ケース① 吉展ちゃん事件

吉展ちゃん事件の犯人である小原保は、幼少期に患った骨髄炎の影響で片足が不自由となっていますが、これが小原の事件どころか人生全体に影響を及ぼしています。周囲の同年代からは馬鹿にされ、訓練所で学んで時計の修理工となり、そして事件でも「おじちゃん、足が悪いの?」と指摘されたことによる身元特定の恐れが殺害の動機となりました。小原の前歴と凶行を説明する上で、片足が不自由になったことは決して外せない訳です。

仮に小原を健常者として再現VTRなどを作るなら、それは都合の良い歴史改変であり事件内容の歪曲です。小原は職務や経済での困難や前科などを抱えていましたが、その環境のほとんどは片足が不自由になったことに端を発する社会モデル的な不遇で説明がつきます。それに、誘拐当日に殺害を決意した動機が自身の足を指摘されたことによるものという、事件の中核となる要素を捻じ曲げてどうしようというのでしょうか。

ただ、小原の生い立ちや犯行経緯を映像で説明しても「片足が不自由になったから犯罪者になった」と短絡的に受け止められることは少ないのではないかと思われます。よほど捻くれた受け手でなければ、下肢障害と個人問題の分別は付きやすい方と言えるでしょう。

ケース② こんな夜更けにバナナかよ

鹿野靖明さんという実在の重度身体障害者と、彼を取り巻くボランティア達の日常を描いた作品「こんな夜更けにバナナかよ」。原作者の渡辺一史さん曰く「自己主張が強く聖人君子とは程遠い」人間であった鹿野さんは、人並みにスケベで、人並みにゴシップを好み、人並みに好き嫌いがあり、何よりワガママだったといいます。そもそも題名の由来が、鹿野さんに「バナナ買ってきて」と言われたボランティアのボヤキからきています。

鹿野さんが聖人君子でないように、ボランティアの人々もまた志のある高潔な人間という訳ではありません。遅刻することもあれば、介助を覚えられないこともあり、時にはワガママに対して怒る事もあります。その場にいるのは善意の人ではなく、人並みに生き、人並みに欲求を訴え、人並みに感情を出し、人並みに失敗し悩む、そんな人々だけでした。要支援者と介助者ではなく、人間と人間のやり取りです。

映画版は、観客が「さすがにワガママすぎない…?」と引き気味になっていたのが段々と「そうじゃないのかも…?」と思い直すよう引き込む作りだったようです。重度身体障害者が地域の中で生きていく為のファーストペンギンだった鹿野さんにとって、ワガママな態度は一人の人間として普通に生きるための命をかけた叫びでもありました。「障害者よ善良たれ」という押し付けを突き破るには、ああでもしないといけなかった筈です。

こうした時代背景などを加味せずとも、鹿野さんがとても善人とは言えないワガママな重度身体障害者だからといって、全ての重度身体障害者が自己主張の強い存在だと飛躍した解釈をされるのは少ない気がします。寧ろ、鹿野さんが道を敷いたことによって温厚で謙虚な重度身体障害者も地域に出てこられた側面もあるのではないでしょうか。

そもそも、重度身体障害者である部分をオミットしたら作品の根幹そのものが崩壊するんですけどもね。

ケース③ みいちゃんと山田さん

漫画「みいちゃんと山田さん」の主人公であるみいちゃん(本名:中村実衣子)は、先に挙げた2例とは色々な意味で毛色の違う存在です。まず、実在である彼らと違って、みいちゃんは作者の知人をモデルにした架空のキャラクターです。たまに「色々な障害者の特徴を詰め込んだ『キメラ』だ」という批判もありますが、複数のモデルを一人に詰め込むのはキャラの一貫性と引き換えに「あるある感」を高めるちゃんとした造形法なんですよね。「バナナかよ」のボランティア2人も、沢山いた実際のボランティアたちを詰め込んだ「キメラ」ですし。

それで最大の相違点となるのが、みいちゃんは見て分かる身体障害ではなく知的障害或いは境界知能ということです。未診断のうえ作中では明かされないので、どこまで行っても疑い止まりですが、何らかの知的ハンデが示唆されていることは否定できないでしょう。これは単なる障害種別の違いで片付けられない厄介さを生み出しています。

みいちゃんは作中で頻繁に問題行動を起こし、周りはしばしば眉を顰めます。しかし、これを全て知的ハンデ由来と解釈するのは乱暴で短絡的な「低リテラシー」の読み方です。先の小原保で例えるなら「下肢障害を指摘されて殺した」となりますが、これがどれだけ乱暴な物言いか分かりますか?

彼女の生育歴や環境は悲惨の一言に尽きます。疎んじる祖母と気分屋な母親からはほぼネグレクト、小学校では馬鹿にされてトラウマを植え付けられた挙句不登校、中学校では常識や性倫理を木端微塵に破壊される大事件が起き、ちゃんとした「生きる力」が身につかないままに東京へと放り出されました。

みいちゃんを形成したのは知的ハンデだけでなく環境による側面も大きいです。しかし、障害由来か環境由来かはとても外から判別のつくものではありません。しかも全てを障害由来とする極端に偏った読み方を止める仕掛けは作中に用意されてないです。暴れたり怒ったり泣いたりするシーンばかり切り抜かれているのも痛いところですね。

ツバサくんの描写とか公式側の扱い方とか変なところは結構ありましたが、みいちゃんの来歴自体は一人の障害者として環境次第で成り得る範囲に収まっているのではないかと思います。中学での事件(環境)からなんでも「ペロペロ」で解決するようになったと読み解くのはそんなに難しいことではない筈なのですがね。

低リテラシーとどう向き合うか

腫れ物扱いすることなく「善良でない障害者」を描くには、結局のところ低リテラシーとどう向き合い対策していくか考えるほかありません。どう伝えても悪いように受け取り、どう釈明しても揚げ足を取る事しか考えない手合いは残念ながら遍在します。

リテラシーは無いくせに攻撃性だけは高い連中を怖れて無難な表現に留めるのは、単なる逃げであるだけでなく要らぬ自主規制で表現者仲間を委縮させる悪手です。

意地悪で捻くれた解釈による被害を抑えるために「一個人の描写を全体へ一般化しない」というマナーを啓発すること。障害者の何たるかを一人のキャラクターにばかり背負わせないこと。恣意的な切り抜きに目を光らせ著作権の名のもとに止めること。これらの足掻きもしてみせる必要があります。

しかし、実在非実在問わず多様で多面性ある障害者を表現するには、低リテラシーの受け手を怖れない大胆さが最後には求められます。無対策で世に放出するのはさすがに危険ですが、意地悪な解釈を一般化させないためには発信する側の努力もそれなりに求められるのではないかと思います。

色々と繰り言を並べましたが、結局のところは知的や発達への偏見が「善良ならざる存在」を描くことへの躊躇いを生んでいる元凶ではないでしょうかね。

参考サイト

映画『こんな夜更けにバナナかよ』困難を乗り超えて人生を味わう力
https://www.philips.co.jp


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遥けき博愛の郷

遥けき博愛の郷

大学4年の時に就活うつとなり、紆余曲折を経て自閉症スペクトラムと診断される。書く話題のきっかけは大体Twitterというぐらいのツイ廃。最近の悩みはデレステのLv26譜面から詰まっていること。

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