障がい者として生きていく覚悟
暮らし出典:Photo by Fallon Michael on Unsplash
私は小学3年生のころから自分に違和感を感じ、生きづらさを抱えながら生きてきました。
大学生になり学生生活を送るのに限界を感じ「鬱病」になったことがきっかけで、病院で知能テストを受け「軽度知的障がい」と診断されました。
ポジティブな私
自分の違和感については、ずっとネットや本などで調べていたので「知的障がい」と診断されても、驚くことも動揺することもありませんでした。
むしろ「自分は怠けているわけではなかった」「やっと楽になれる」「解決策がみつかるかもしれない」とポジティブな部分に目を向けていました。
ネガティブな母
一方で、母親はショックだっだたのか私の「鬱病」や「知的障がい」をなかなか受け入れられなかったようです。
親の気持ちを考えると確かに、大学まで進学し、今まで特別問題行動も起こさず生きてきた娘が「知的障がい者」だとは信じがたいと思います。
健常者として過ごしていた日々
診断にいたるまで、周りにはほとんど気づかれることなく日常生活を送っていました。ですが一部の学校の先生や塾、家庭教師の先生は気づいていたと思います。
遠回しに「知的障がい」を指摘されたり「君は人の何倍も頑張らなアカンで!」といわれていました。
なので、自分なりに勉強し、健常者の言動を自然に真似するようになりました。悪くいえば「自分がない」よくいえば「空気を読む」人間だったのです。
健常者を目指して後悔していること
学生時代は悪い友人とつるみ、社会人になってからも気が合わない友人や恋人と過ごし、服装も周りに合わせてできるだけ浮かないようにしていました。
ですが、今思うと「若い貴重な時間を無駄にしていた」と後悔しています。
現在、障がいや病気で苦しんでいる人はプライベートでの好きなことやつき合う人を、できるだけ自分の意思で決めてほしいです。過ぎた時間は、もう二度と返ってきません。
少なからず健常者も、自分に仮面を被って生きています。その仮面は、社会を生き抜くための処世術なのです。
後悔の先に見えたもの
後悔の中に新たな発見があったり、自分とは違う世界の人と関わることで、新しい価値観にも触れることができました。
まずは飛び込んでみないと、自分のことも見えてこないものです。しかし、何も考えず行動するほどの「適応能力」は残念ながら私にはありません。なので、今までの経験を踏まえたうえで、これからは慎重に選択していきたいです。
そして、もしその選択が間違いだったとしても、また引き返して、何度でも軌道修正していけばいいのです。
今うまくいかなくて苦しんでいる人が、少しでも挑戦する勇気を持ち、やり直せる社会になることを願っています。