もう一度発達障害の生き辛さについて考えませんか?あまりに一方的じゃないですか?(『発達障がい~神からの贈り物~』第30回)
『発達障がい ~神からの贈り物~』 第30回 <毎月10日連載>
発達障害は能力の偏りが大きい障害、
このことに異論を持つ人はこのコラムをお読みの方にはいないと思いますが、ある人にとっては苦手なことが別の人にとっては得意なこと、という事例がいくつもある。
一般には発達障害の人は明確な指示がないと動けない、なんて言われるが、私自身は仕事はできるだけ自由にやらせて欲しい、必ず正解は出すから、という信念をもっている。
私の周りでは明確な指示を欲しがる発達障害者のほうが多数だが、私と同じタイプの人もある一定存在する。
しかしながら、発達障害者が自身の苦手なことを発達障害全体の困りごとのように表現する人が実に多い。残念ながら同列にコラム寄稿している方々の中にもこういう表現を多く見かける。自分たちが社会の少数派である生き辛さに直面しておきながら、発達障害の少数派に配慮しないのはいったいどういうことだろう?実に寂しい。
加えて発達障害を免罪符のように言い訳にする人も多い。
プライベートなことならいざ知らず、仕事では誰かができないことは別の誰かが埋め合わせなければならない。合理的配慮を求めるのは当然の権利だが、その一方で配慮する側に感謝を感じられる人がどれほどいるだろうか?それができる人は免罪符など使わずとも自然に周りから配慮されているようにも感じる。
また、できない人の生き辛さはもちろん理解できるが、できてしまう人の辛さを考えたことがあるだろうか?
先日、職場で同僚全員を叱ることがありました。現在はA型事業所はどこも事業の健全化で大変な時期だと思いますが、例の漏れず我が事業所も新たな施設外就労先や新規事業の立ち上げなど仕事が立て込みました。なので職員は皆疲れがたまっていたと思いますが、その事業のほとんどを私が責任者として任され、全く休憩も取れずに仕事に向き合う中で、『他の職員がしんどいから』という理由で私が現場を掛け持つ日々が続き、とうとう切れてしまいました。
君たちを休憩させるために私の休憩を削っている。かつ自分の仕事を後まわしにして…。
職場のホープとしていつもできない人の分を頼まれて、期待されているだけに嫌とは言えず…、そんな経験で過去には鬱になってしまったことがある。その後、私に発達障害があることが判り、私の能力の偏りが自然の心に落ちた。自分でできる人間だなんておこがましい表現だが、そんな表現に構っている余裕は私には無い。発達障害だから故に自身に与えられた能力を一所懸命鍛えてなんとか人並みに働けるようにという私の努力を、『当たり前にできるから』『彼ならそんなに苦労することなくできるだろう』なんていう評価のもと、周りの期待に応え続けなければならない。
私なりに一所懸命障害と向き合いながら生きる中で、上記のような…。まさに心が折れそうです。
過去には高知能が障害になりえるというお話もしました。社会の中に知的障害者と同数の高知能の生き辛さをもつ人が存在します。しかし彼らへの配慮など社会のどこに存在するのか、というほど見落とされている。
できないことの生き辛さを述べるなら、できてしまう者への配慮は当然でないだろうか?発達障害を個性だというのならできないできないばかり言わず、できることももっと積極的に向き合ってみるべきではないだろうか?
先にも述べたように、発達障害は能力の偏りが大きい障害であって、能力が高低がその基準ではない。加えて全てに共通の苦手なことなど存在しない。
今一度、これらのことを考え直して欲しい。発達障害への配慮は発達障害の多数はのためだけのものではないはずです。
発達障害