元事務次官の息子殺害事件を振り返る~その2・二次障害の碑

発達障害

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◀過去の記事:元事務次官の息子殺害事件を振り返る~その1・事件の概要

無職引きこもりの熊澤英一郎さんを刺殺し実刑判決を受けた熊澤英明被告のお話です。新たな動きとして、保釈期間を経て懲役6年の実刑判決に服する筈だった英昭被告が控訴へ踏み切りました。保釈自体も異例だったのですが、どこまでも予想を超える動きにネット上では同情の声も少なくなってきた印象です。

「英昭被告は刑に服する意向があったものの、判決を不服とした弁護士が被告の了解を得て控訴した」と報じられておりますが、そもそも控訴の申し立ては被告の意志に反して行うことが出来ないようになっています。つまり、英昭被告は上告という道すなわち執行猶予の可能性を自分の意志で選んだのです。

ただ控訴には判決から14日以内という期限があるため、一旦控訴を申し立ててから本当に上告するか考えるケースもあります。控訴の取り下げは完全に被告の独断で行えますので、これをもって贖罪の意志を表明することは出来るでしょう。

父親こそ最後の砦

この事件について、まずは英一郎さんの視点に立って考察しようと思います。英一郎さんには両親と年の離れた妹がおりましたが、このうち母親と妹に対してはTwitterで恨み言を述べるほど嫌っていました。特に母親への憎悪は凄まじく、「初めて殴った快感」「真っ先に殺したい」とまでツイートしています。

妹はともかく母親には英一郎さんから恨まれる理由がありました。英一郎さんの少年時代、勉強させるためにプラモデルを破壊していたのです。これは英一郎さんのTwitterだけでなく同級生の証言でも語られているため事実とみていいでしょう。あの加藤智大死刑囚の母親を思わせる愚行で、当然ながら生涯和解することはありませんでした。

一方、父親の英昭被告についてはその存在やキャリアをひけらかし、威光を笠に着てTwitterやネットゲームで威張り散らしていました。しかし父親を一人の人間として信頼していたかというとそうではないように感じます。就職先の斡旋や土地収入だけで暮らせる手配などは受けていましたが、母親の代わりに子どもを受け容れることはあまり無かったのではないでしょうか。

父子で同人誌即売イベントに参加することも何度かありましたが、当初は「目的意識を持たせるために」と英昭被告が勧めていたようです。しかし5年前の段階で親子に会話は無く、売り子(店番のようなもの)を親に押し付ける有様でした。

それでも英一郎さんが唯一話せる人間は英昭被告でした。ゆえに同居を再開してすぐ「俺の44年間は何だったんだ!」と床に突っ伏して泣き出したのです。目の前で本音を涙ながらに吐露したのは、英一郎さんから英昭被告に与えられた最後のチャンスでした。しかし、英昭被告は息子の号泣を無下に突き放してしまい、亀裂は決定的なものとなったのです。

寄り添うというより指示する

視点を英昭被告に移すと、英一郎さんの難しさが伝わります。日本大学からの編入や代々木アニメーション学院への入学、就職先の斡旋に果ては賃料と駐車場収入だけで暮らせる手配と、官僚家庭ならではの手厚いサポートで尽くしてはいました。しかし英一郎さんが年を取るにつれ、「とりあえず生きていればいいか」という雑さが浮き彫りとなってきています。事実、再就職など社会復帰に向けた行動は起こしていませんでした。

自身が天下り官僚であるうえ妻の実家も富豪である英昭被告にとって、働かずとも生きていける環境を整えるのは造作もないことでしょう。しかし英一郎さんには職がないこと自体に不満がある上に解決の糸口を掴めない状況でした。Twitterや個人サイトで地主やイラストレーターを自称していたことからも無職である自分を嫌悪していた節が窺えます。

そんな英一郎さんに英昭被告がかけたコミュニケーションは専ら生活指導でした。メールやTwitterで送ったメッセージのほとんどは「ゴミは捨てたか」「散髪には行ったか」「苦情が出ているからゴミをどうにかしろ」といったものだったのです。「せめて近所に迷惑をかけずひっそりと暮らしてほしい」と思っていたのでしょうが、英一郎さんの漠然かつ混沌とした悩みに寄り添う姿勢はありませんでした。

英一郎さんが同居を申し出て英昭被告が思ったのは「ゴミ屋敷になって住めなくなったか」でした。英昭被告の頭はゴミ問題をどうするかで一杯になっていたのです。ゆえに「俺の44年間は何だったんだ!」と泣き出されてもその気持ちに寄り添うことなど出来る筈もなく、「ゴミを捨てないとな」と口走って親子関係を修復不能に陥らせてしまいました。

英昭被告は家庭内暴力について然るべき機関へ相談することを全くしていませんでした。熾烈な暴力を警察に突き出すという発想すらなく、すべて内々で解決しようとする無謀さが息子への殺意に変わったのでしょう。どこにも相談せず家族だけで抱え込んで事態を悪化させていくのは引きこもり家庭にとってよくあることです。

証人として出廷した後輩官僚すら家庭の相談を受けていないと答えていました。これについて英昭被告は「どこへ相談しようと引き取るのは自分たちだし、相談したことで余計に関係が悪化する。」と諦念にも似た理由を述べています。

時代的な不備

時代的な不備もこの事件を語る上では避けて通れません。英一郎さんの思春期頃にあたる90年前後は発達障害の概念すら不確かなもので、診断が下りたのも40歳になってからです。20歳ごろに統合失調症とも診断されていますが、その頃(90年代半ば)は旧称の「精神分裂病」で通っていたほど古い時期でした。国内精神医学の過渡期(ならびに就職氷河期)に直撃していた不幸も無視できません。

ただ、それまでです。95年に精神保健福祉手帳、05年に就労支援事業所が制定されたため、英一郎さんは30代から再出発のチャンスを公的に得られる立場にありました。しかも英昭被告には並外れた財力がありますので、社会復帰に向けたトレーニングを英一郎さんに受けさせることは十分可能だったはずです。

遅くともアスペルガー症候群の診断が下りた40歳の時点で就労支援B型などを始めて社会復帰の準備を進めていれば、最悪の結末は避けられたかもしれません。最近は氷河期世代の既卒採用が盛んになるかならないかの時期にきています。本人が乗り気でなければそれまでなのですが、英一郎さんのコンプレックスからすれば「無職から脱却できる」という話には乗ってくれたのではないかと個人的には考えています。

二次障害の碑

この事件から反省すべきことは、「発達障害の二次障害は時として重篤な結末を招く」ということです。結局は時代の無知によって見放されたことが全ての端緒とみて間違いないと思います。いじめ・不登校・統合失調症と、深刻化していく二次障害に抗する術も不十分でした。

英一郎さんは金を積んでも解決できなかった時代の犠牲者です。精神医学の進んだ今こそ彼を「二次障害の碑」として偲び、反省点を考察する材料とすべきではないでしょうか。「二次障害の碑」こそ英一郎さんが生前得られなかった仕事となるのです。

参考サイト

熊沢英昭の控訴に卒倒 執行猶予へ 懲役6年でも不服の息子殺人犯 - 本日の解説クラブ
https://honjitu.net

控訴Q&A|控訴に関する疑問を弁護士が解説|中村国際刑事の弁護士
https://www.t-nakamura-law.com

「僕の44年間はなんだった!」号泣する長男に「ゴミを片付けないとな」元農水次官がかけるべき言葉は何だったのか:J-CASTテレビウォッチ
https://www.j-cast.com

ゴミ屋敷注意し壮絶な逆襲にあう 元農水次官・熊沢被告がみた修羅|FRIDAYデジタル
https://friday.kodansha.co.jp

遥けき博愛の郷

遥けき博愛の郷

大学4年の時に就活うつとなり、紆余曲折を経て自閉症スペクトラムと診断される。書く話題のきっかけは大体Twitterというぐらいのツイ廃。最近の悩みはデレステのLv26譜面から詰まっていること。

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