広汎性発達障害~鬱病と診断されるまで
うつ病 発達障害私は23歳の時に、広汎性発達障害と鬱病と診断されました。自分は発達障害の気があると正直なところ思っていましたが、いざ診断されると腑に落ちたのをよく覚えています。なぜ23歳まで病院に行き診断を受けなかったのか。その理由を語っていきたいと思います。
他人に適応しすぎた学生時代
自分にとって学生時代は非常に生きづらかったものでした。まずは中学時代ですが、思春期ということもあり、他人の言動に常に心を乱されていました。他人の目が気になり、他人の話に面白くもないのに合わせて笑ったものでした。他にも、人との会話が長く続かなかったり、他人を卑下する目線を持ったりしていました。この時点で、自分は何か人とは違うのではないか、他の一般人と比べて異質な人間なのではないかと考える機会が増え、悩み始めました。他人との距離があり親友も出来ない。それでも、人間関係は薄くありながらもそつなくこなしている。他人の会話で何が面白いのか分からない。それでも、周りがそうなんだから自分も合わせないといけない。そんな生活をしていました。なまじ勉強と運動ができたのでいじめの対象にはなりませんでした。だからこそ症状の発覚まで時間がかかったと今では考えています。
安定しない体調
私は小さい時から身体が弱かったです。クラブチームでサッカーをしていたのですが、大きな大会の後には決まって体調を崩しました。その他にも、冬になるとインフルエンザにかかり何日も休み、毎年冬になると出てくる学校の給食の好きなものを食べられないのが当たり前となっていました。恐らく、他人との日常生活に疲れて精神的に参ってしまい、病気になってしまったのでしょう。この時から鬱病の前兆が垣間見えていました。頻繁に学校を休むので親も心配してくれましたが、私はこんな弱い身体に生まれてきたことを残念に思っていました。何かが他人とは違うと感じていたのは、こういう身体の弱さからでもあったのです。
乱れた大学生時代
体調が悪い中でも受験勉強を頑張り、なんとか大学には合格しました。
しかし、ここからが転落の始まりでした。大学生になり、自分がやるべきことを自分で決めるようになった途端、何もできなくなってしまったのです。今までは誰にも何にも言われなくても学校に通い、部活動を頑張り、なぜか1日が過ぎていました。しかし大学生では、バイトの時間やその他空き時間に何をするのかも自分で決めなければなりません。しかも熱中することがない。自堕落な生活へと突き進むには絶好でした。大学に行かなくなり当然単位も取れません。待っていたのは留年でした。
見兼ねた両親は一人暮らしの提案をしてきました。学校への距離があるから行かないのだろう。一人暮らしで学校の近くで済めば解決するのではないか。私は受け入れましたが結果はわかっていました。
今まで以上に生活は乱れほぼ毎日寝たきりの生活になり鬱を発症したのです。両親はショックだったと思います。優等生で真面目だった息子がこのような状態になってしまったことに。現在では普通に両親とこの時期についての話はしますが、やはり受け入れがたいものはあったようです。しかし、現在では前向きに私の障害と向き合ってくれています。
障害特性と鬱病
私の障害特性は、熱中することがあるときは一直線に前に進めるが、何もないと一つのやる気も出てこないことです。なので仕事を続けていく上では、大きな障壁となって立ちふさがってきます。また鬱病も合併して発症しているので、精神的に落ち込まないようにしながら生活しなければいけません。
何か熱中できるものがあればすべて解決しそうですが、現在にいたるまでにそのようなものと出会えていません。就労支援施設に通い、自己探求に努め、自分に合う仕事を見つけるために日々過ごしています。
障害特性は人によって違います。私の場合は何か熱中できるものがあれば突き進めるがそれを見つけれないという特性でした。あくまで1個人の意見ですが、このコラム内容を見ていただけると幸いです。
広汎性発達障害 うつ病