「一人で死ね」論がなぜ駄目なのか

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「(恋愛弱者やオタク男性は)波風立たせず平和にひとり滅びればいい」とは、東京大学の社会学・上野千鶴子教授が自著にて展開した持論です。こうした「出来れば僕たち私たちのフィールドと関係ない所で一人ひっそり滅びてくれないかなぁ」という、ある種身勝手な思考を「一人で死ね」論と呼びます。

「一人で死ね」論は無責任かつ身勝手な放言に過ぎません。社会のあらゆる深刻な問題について、それに悩む当事者へ「お前面倒くせえんだよ!視界から消えろ!」と蹴りを入れるようなものです。そして、現実から引き離したかった人間を却って現実上へと引き寄せることもあります。

川崎通り魔事件を機に増殖

「自分さえよければいい」の発露に過ぎなかった「一人で死ね」論が一気に支持されだしたのは、2019年5月に起こった川崎通り魔事件がきっかけでした。たった十数秒で20人を次々と殺傷し自ら命を絶った犯人に対し、「死にたいなら他人を巻き込まず一人で死ねばいいだろう!」という意見がテレビやネットを問わず各所から噴出したのです。

理不尽な目に遭った被害者への哀悼という隠れ蓑もあって、反論されれば「自分や家族が襲われても同じことが言えるのか!」でやり過ごせる無敵の論理にまでなりました。しかし、所詮は「自分さえ無事ならそれでいい」という我儘に過ぎません。

極刑が下されるほどの凶悪犯罪者はしばしば「別世界の住人」「知らない場所の怪物」として扱われます。例えば、見ず知らずの親子4人を崖から突き落とした「おせんころがし事件」の栗田源蔵です。栗田は1956年の国会にて、当時の最高検察庁検事である安平政吉氏から名指しで「特殊な極悪人」と呼ばれていました。

しかし、いくら「別次元のモンスター」と思い込んだところで無駄です。栗田源蔵にしろ古谷惣吉にしろ植松聖にしろ、彼らの現実と我々の現実は地続きになっています。同じ現実世界に生きている人間が、現実世界における様々な圧力や障害や不遇などによって怪物になったのが大半です。

今現在は安定していても途中で転落しないとは限りません。自己責任論の蔓延を放置していては、地続きの現実のどこかで新たな怪物が目覚めることでしょう。哀悼のつもりで「一人で死ね」と放言していると、それを受け取った人間が怪物になるかもしれませんし、その怪物になるのが自分や家族かもしれないのです。

逆に「拡大自殺」を煽る

「一人で死ね」というメッセージを受け取ると、逆に「拡大自殺」を煽るという危険性も説かれています。精神科医の片田珠美さんは「拡大自殺」について、「自殺願望と(社会への)復讐願望が合わさり、誰かに道連れを強要すること」と定義しており、「津山三十人殺し」や「コロンバイン高校銃乱射事件」を例に挙げています。

コロンバイン事件では、犯人の母親が「自殺予防の活動」に力を入れています。加害者遺族や自殺者遺族と関わっていく中で、自殺願望が凶行の原動力になると気付いたからです。出版した手記では「私たちのような加害者遺族は自殺願望こそ事件の原因と考えていますが、世間はひとつの殺人事件とすることに固執しています。自殺を防げば凶悪犯罪も防げることを周知してもらいたいです」と述べています。

自殺対策支援センター「ライフリンク」の清水康之代表は、「社会としてやるべきは『生きていく方がいい』と思える社会になることではないか。社会づくりの理念で対策を進めなければ、同じ事件は何度でも起こる」「(過剰な報道で)ただ死ぬよりも誰かを道連れにすれば大きく取り上げてもらえる…などと考え出す懸念はある」として社会の態度を問いました。

音楽ライターの磯部涼さんは、デイリー新潮のコラムで「『一人で死ね』という言葉は、8050問題などの社会的背景から犯人を引き剥がし、犯人ひとりに全てを抱え込ませて闇へ葬る残酷さがある。遺族の怒りを代弁しているつもりだろうが、事件を自分たちの問題として考える煩わしさから逃げているだけではないのか」と川崎の事件に言及しました。

更に磯部さんは「『一人で死ね』が別の男の背中を押し凶行へ向かわせた。その男とは元農水事務次官の熊澤英昭だ」とコラムを結んでいます。熊澤被告の息子殺しもまた「拡大自殺」の一つの形といえるでしょう。殺す対象が自分ではなかったという大きな違いこそありますが。

なぜ死ぬ前提なのか

川崎通り魔事件を抜きにして考えても、そもそも「死ぬ」という前提で語っていること自体に大きな問題があります。「生き直す」という選択肢が無いのは「本人が死にたがっているから」でしょうか、それとも「養う余裕が社会にはない(と思い込んでいる)」からでしょうか。

冒頭の上野教授の発言には「現実に干渉しないまま一人でくたばってくれ」という願望が込められています。これは「滅びていけばいい」という「滅亡」「死」を前提とした言葉選びから明らかです。なぜここまで「死」を願っているのでしょうか。

大雑把に考えるならば、幼稚な願望が表出されただけに過ぎないのだと思います。「オタクはキモイから死ね!」「障害者は生産性がないから死ね!」「おれの言う通りにしないなら死ね!」という極めて幼稚な願望です。実際に事に及ばず、本人はオブラートに包んだつもりで「一人で死ね」と譲っているのでしょう。幼稚な願望に従って事に及んだのが植松や栗田なのですが。

京都ALS嘱託殺人のように「本人が死にたがっていた」としても、「死にたがっていたならしょうがないか。ALSだし……」などと宣(のたま)って「生き直し」について俎上(そじょう)に載せることはありませんでした。この辺りに「自分で歩けもしない奴を社会で包摂するのは不可能だ」という残酷な諦めが滲み出ています。

生き直し生き続けるにあたって本人ひとりが適応できるのはごくわずかです。社会で包摂するための仕組みや風潮などを作っていかなければ、「生き直し」の選択肢は生まれません。これは「障害の社会モデル」「障害の個人モデル」にも通じる話だと思います。

「一人で死ね」とは社会に潜む数多くの生きづらさに対して思考を放棄するばかりか、悩んでいる当人を「自己責任論」の刃で刺し貫くタチの悪い我儘です。本人への気遣いや譲歩のつもりで言ったのであれば、価値観が倒錯していると言わざるを得ません。

それにしても、通り魔の犠牲者に対する哀悼として絞り出した言葉が「犯人は一人で死ね」とは、冷静に考えればおかしいと気付きそうなものです。事件報道で気が立っていると、余裕が無くて分からなくなると言えなくもないですが、いくらなんでも「死ね」は無いと思うのですが。

参考サイト

「川崎20人殺傷事件」が社会に問うたもの ”8050問題”と”一人で死ね”論
https://www.dailyshincho.jp

「1人で死ね」ではなく~川崎19人殺傷事件で当事者でない1人として言えることできること(江川紹子)
https://news.yahoo.co.jp

遥けき博愛の郷

遥けき博愛の郷

大学4年の時に就活うつとなり、紆余曲折を経て自閉症スペクトラムと診断される。書く話題のきっかけは大体Twitterというぐらいのツイ廃。最近の悩みはデレステのLv26譜面から詰まっていること。

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