「自閉スペクトラム症」と私の32年
発達障害 暮らし出典:Photo by Meriç Dağlı on Unsplash
自閉スペクトラム症と伝えられたのは32歳の9月でした。就業支援を利用するために必要な主治医の意見書に書かれていたことで知ることになりました。診断自体は23歳のころだったそうです。
当時、病院にいくきっかけとなったのは、私が「手洗いを繰り返す」という症状を心配した家族に、心療内科を勧められました。通院する中で私の時折見せる"こだわり"などで診断されたようです。主治医から伝えられた母は、私がショックを受けることを避けるために「時期が来るまで伝えないで欲しい」と伝えていたそうです。実際に診断を知った私はショックを受けて「主治医の先生は勘違いをしている」と母に何度か訴えたりもしました。
就業支援事業所での取り組みの中で、インターネットを使い自分の診断名を調べることがありました。調べてみて私は納得することができ、また生きにくく感じてきた人生にもその影響があったのだとわかりました。
幼少~小学校時代
私は幼い頃から興味のあることへの集中力が高かったと母から聞いています。仮面ライダーやウルトラマンの名前はもちろん、敵の名前などもすべて覚えていたそうです。
小学校に上がって3年のときに引っ越しをすることとなり、転校することになりました。毎日一緒に帰る友達もすぐにできましたが、私は友達の言葉の細かい部分に常に不信感を持っていました。厳密には、友達の言葉ではなくその"言い方"です。どんな言い方だったかは、もう覚えていませんが、いつになっても友達を信頼することができませんでした。
6年生のとき、学校をズル休みした日がありました。すごく悪いことをしている感覚で、友達にズル休みがばれると気まずいので、次の日教室の前まで行きましたが、入る事ができずに家に帰ってしまいました。それから私は不登校になりました。先生に最低限の出席を提案してもらい、週に何度かだけ教室に行くことになりました。(學校にはきていましたが、基本的には家庭科室にいました)
自閉スペクトラム症の症状として「対人関係や相手の気持ちを推し量ることが苦手」だといわれています。私が友達の言葉に不信感を持っていたことや、学校をズル休みした後の友達の気持ちを想像して不登校になったことにも、自閉スペクトラム症の症状が現れていたと考えられます。
またある日、休み時間に友達に声を掛けられて、私が何度も手洗いをしていることを心配されました。このとき初めて、手洗いを繰り返していることに気付きました。(この手洗いの症状は23歳の時に心療内科で強迫性障害と診断されました)
中学生時代
中学校へ進学後は、教室にいかずに図書準備室に登校していましたが、毎日登校していたわけではありません。
そんな生活に変化があったのは、1年生の途中からスクールカウンセラーが来るようになったころです。スクールカウンセラーの人は20代の男性で、私の好きな野球・アメリカのプロレス、アメリカの映画の話をいつも聴いてくれていました。(私は野球選手の名前や特徴、プロレスラーの名前や技やポーズ、映画俳優の名前はほとんど覚えていました)また、キャッチボールの相手もしてくれて、カウンセラーの人がくる日は必ず学校にいくようになりました。
中学3年のとき、私は高校への進学は考えていませんでしたが、母に強く「高校だけは卒業した方がいい」といわれ、定時制への進学を目指しました。そして、母の知り合いの元数学教師だったおじいさんに「入試で数学だけでも点数取れるようにしてあげたい」と声を掛けていただきました。おじいさんは「中学の数学を3ヵ月で教えてあげる」と、1週間に1回おじいさんの家に行って2時間数学を教えていただき、宿題も毎回でました。しかし私は数学に興味がなく、毎回苦しい思いをしながら通っていました。そのおかげか、高校には入学することができたのです。
中学生活では教室には入りませんでしたが、たくさんの人に出会うことができ、また関わっていく中で、充実感をえていたように思います。(中学3年間は手洗いの症状は無かったかように思います)
高校生時代
高校は4年制で、農業系の定時制高校でした。高校1年目は全く通うことができず留年。2度目の1年生の始業式の後、教室の前で、新任の体育の先生に「僕と一緒に入ろう」といっていただき、まず入ることには成功しましたが、学校に行きたくない日が続きました。なんとか次の学年に上がれる様にギリギリの単位を目指していました。
2年生になれてもギリギリの単位を目指す生活は続いていました。僕が嫌がるので、母が車で送り迎えしてくれて、その車中で僕が怒るのは毎回のことでした。また、同じクラスの生徒や先生たち相手だと、すごく緊張してしまい、話をすることができませんでした。
3年生のとき、私たちの卒業と共に学校の閉校が決まりました。私はまた学校に行かなくなりました。教室に入るとなぜか胸がドキドキして、吐き気がするようになっていました。しかし、学校が閉校することが決まっているので、留年の生徒を出せないという事情から、先生たちは単位に関して甘く見てくれていました。私にとっては好都合で、無事4年生になる事ができました。
4年生になるころには学校が閉校するので授業の内容も特別授業がほとんどでした。定時制の記念の部屋作りや、展示品作りばかリで毎日イベントっぽくてあまり苦しまずに通うことができました。そのせいか、胸のドキドキや吐き気の症状はなくなっていきました。おかげで、無事卒業する事ができ、皆勤賞もいただくことができました。
卒業してから3年間
卒業後は、誰とも話せず過ごした高校生活のストレスから、全く外に出なくなりました。22歳ころ、母がK-popにはまり『BIGBANG』が好きだと言うので、私がインターネットで情報を探し、母に伝えることが日課になり、いつの間にか私もBIGBANGが好きになっていました。興味のあることはとことん調べるので、韓国の音楽業界に詳しくなっていきました。歌手の名前や歌、所属会社、プロデューサーの名前や製作した楽曲などにも詳しくなって、私も曲を製作してみたいと考えるようになっていきました。
強迫性障害と診断されて
23歳のとき、私の家に野良猫が入り込む事件が発生しました。3日目に追い出すことに成功しましたが、潜伏していた3階の物置部屋は猫の尿の臭いが充満していて、何度も母が掃除をしましたが、臭いは消えませんでした。
私は臭いが消えないことで、汚い物が残っているような感覚になり、猫のいた部屋、その部屋にあった物などは全て汚いものに感じてしまいました。猫を連想されるものに触ると手洗いを繰り返し、また家族にも手洗いを求めていました。必要以上に身体を洗い「何度洗っても綺麗にならない」と毎回怒っていました。
そのうち、お風呂に入ることもできなくなり、母に除菌スプレーをかけてもらっていました。ついには心配した姉に勧められ、心療内科に行くことに。そこで、強迫性障害と診断され、服薬治療を始めました。
やがて、服薬により少しずつ気持ちが和らいできたことで、手洗いを辞めみました。手洗いの症状は現在に至るまで再発していません。しかし、入浴には勇気が必要でした。主治医に「えいや!って感じよ」と何度もアドバイスをいただき、私は勇気を出して入浴してみました。お風呂から出たあとも不安を覚えることはありませんでした。
私自身も行動を繰り返すことに苦しさを感じていて「辞めたい」と思っていましたが、それをしないと「ずっと気になってしまう」「とんでもないこと(大地震、隕石落下など)が起きてしまうかも……」という恐怖心も芽生えていました。
服薬や医師のサポートはこの"恐怖心"の部分に効いていたのかもしれません。克服には主治医が言った「えいや!」という私の勇気が必要だったのだと思います。
通院してから仕事をしてみましたが……
24歳のとき、母と一緒にBIGBANGのライブを見にいき、迫力やカッコよさから、さらに曲作りへの関心が高まり、私はDTM(デスクトップミュージックの略)教室に通うようになりました。DTMはパソコンソフトでの音楽制作で、その使い方や、作曲、理論も教えてもらえる場所で、32歳までの7年間1か月に2回通い、主に編曲について学んでいました。
病院へ通院しても、主治医とは母を介して話すことがほとんどで、自分で話そうと思っても上手く伝わらずに結局、母が助けてくれていました。そこで主治医に「日記を書いてきて下さい」と、そして「富士日記を参考に書いてみて下さい」といわれました。最初は1行だけでしたが、ある日母に「人物を登場させることを意識してみたら」と言われ、徐々に日記の行数が増えていきました。
特に大きかった影響は、私が30歳のとき、姉に子供が産まれたことです。毎日のように姉、そして姪や甥に会う日々は日記に書くことがたくさんありました。その日記を見た主治医に「人に伝わる文章になった」「成長した」と褒めていただけました。
この7年間の間に農家の野菜の収穫と出荷(2週間ほど)、郵便物の仕分け(1日)、マラソン大会のスタッフ(1日)、車の洗車とコーティング(1ヶ月)と何度が仕事を試みましたが長続きしませんでした。
就労移行支援に通うようになって
32歳の夏「車の洗車とコーティングのバイトを辞めました」と主治医に伝えたときに就労移行支援を勧めていただきました。しかし、私は断りました。理由は、私に選択権が無く、勝手に就職先を決められると思い込んでいたからです。しかし主治医に「見学だけいってから決めなさい」といわれ、従うことにしました。
見学すると想像と違い、これなら通えるかなと思い「とりあえず通うわ」と母と話しながら帰りました。そして、冒頭で書いたように通所のために書類を用意する中で、最初の通院で実は自閉スペクトラム症であると診断されていましたが、ショックを与えないように母が私には伝えていなかったことを知りました。診断を信じられないモヤモヤを持ちながらの通所が始まりました。
やがて、就労移行支援所の取り組みの中で「自分の障害について調べてみる」というものがあり、インターネットで自閉スペクトラム症を調べる中で「私の事やん」と気づき、興味のあることにはとことん調べる性格、興味の持てないことはしたくないというこだわりも自閉スペクトラム症の症状の1つだったと知ることができました。
そして、私のこだわりによる生きにくさが「誰にも分かってもらえない」と苦しさや、孤独を感じていた部分がわかってもらえる。そして主治医はわかってくれていた。と知ることができたのです。
おわりに
私は相手との会話で言葉の一部や態度が私の想いと違うと不信感を抱き、私の考えと違う物事は受け入れることができませんでした。これが私の生きにくい部分で、障害の一部分です。
私自身の大きな課題は「信じること」かもしれません。
私が感じてきた不安や、恐怖心は「信じること」ができていなかったから芽生えたのだと思います。今までの私の人生は私を信じてくれた人たちがつくってくれたものです。これからの人生は「私が信じる」ことでつくっていきます。
参考文献
【自閉症スペクトラム障害について | メディカルノート】
https://medicalnote.jp
【ウィキペディア 武田百合子】
https://ja.wikipedia.org
【ウィキペディア デスクトップミュージック】
https://ja.wikipedia.org
自閉症スペクトラム障害(ASD)