差別の大義名分、優生学と社会ダーウィニズム
暮らし「LGBT理解促進法」についての審議中「生物学」を持ち出して反対する議員がいたことを覚えていますか?これには生物学を嗜む程度の人すらも「生物学について何も知らないくせに、こういう時だけ名前を出すんじゃねえ!」とマジギレしていたような気がします。
生物学、特にダーウィンの唱えた「進化論」は、差別と排除の大義名分として愛されてきた歴史があります。いわゆる「優生学」はその極致と言えるでしょう。一方、進化論を人間社会へ無理に適用させた「社会ダーウィニズム(社会進化論)」という分家もあり、こちらが今でも厄介を振り撒いています。
優生学は息絶えましたが、社会ダーウィニズムは未だに一定の支持を得て存在し続けています。植松聖などはまさに社会ダーウィニズムの息吹そのものと言えるでしょう。これに関しては、ダーウィン及び進化論が冤罪であるという説もあります。
ダーウィンの従弟
ダーウィンにはフランシス・ゴルトンという従弟がおり、結論から言うと彼の蒔いた種が今日まで影響することとなります。ゴルトンは統計学者としては優秀でしたが、ダーウィンの進化論にまで統計学で口を挟み、優生学の基礎を確立してしまいました。
「大体の社会は弱者の保護に努めているが、これは弱者を淘汰する自然選択と噛み合わない」「犬や馬でも出来るんだから、人間でも優秀な者同士で何代も結婚すれば優秀な人間が増えるはずだ」「今は秀才よりもバカが生まれやすい『逆淘汰』の状態にある」
ゴルトンは以上のように唱えました。しかし具体的な方法については明示せず「人類が後で本気出したら何かやるだろう」と述べるに留まっています。その「何か」が人種差別や障害者差別に根差した政策ばかりであったことは歴史が語る通りです。やがてホロコーストを招いたとして優生学は表向きの「絶滅」を迎えました。
しかし当時の優生学者は身分を変えてセカンドライフを送っており、中には「健全な男女を結婚させる」という目的で結婚相談所を開いた者もいます。そして、一度は廃れた優生学も個人レベルでは細々と復活しているそうです。
本当はラマルキズム
「社会ダーウィニズム」の始祖は社会学の父でもあるハーバート・スペンサーです。彼はダーウィンと同じ時代を生きており、彼の作った言葉がダーウィンの「種の起源(第5版)」に取り入れられたこともあります。その言葉のひとつが「適者生存」です。
スペンサーの打ち立てた「社会ダーウィニズム」は、実はダーウィン以前の主流であったラマルクの進化論(ラマルキズム)に立脚しています。ラマルキズムには「進化には目的があり、その目的に近付いたかどうかが生物としての優劣だ」という主旨があり、ダーウィニズムは逆に「進化に目的や優劣など無く、偶然の産物でしかない」という立場です。本来は「社会ラマルキズム」と呼ばれるべきものだった訳ですね。
「適者生存」という言葉にしても、借りたダーウィンにとっては「たまたま生存したものを『適者』とする」という意味合いだったそうです。ラマルク的な「『適者』に近付く努力をしたものが生存する」との違いはお分かりいただけるでしょうか。
何はともあれ、スペンサーは生物の進化を人間社会へも当てはめようとしました。ただ、スペンサーにとって「進化」とは「窮屈な社会から自由な社会」で、社会保障や多様性が保証されている状態こそ「進んでいる」と想定されていたそうです。
後にスペンサーの威を借りた者たちは「適者生存」「優勝劣敗」「弱肉強食」を掲げ、植民地政策や人種差別の正当化に利用し始めました。そして、揃いも揃って「多様性」を進化の果てとは認めなかったのです。
本当はラマルクやスペンサーの流れを汲んでいたにもかかわらず「社会ダーウィニズム」と名付けられていたのは、ラマルクやスペンサーよりもネームバリューに優れたダーウィンで権威付けを図ったものと思われます。
自己責任論との相性
差別の正当化として使われていたのですから、自己責任論との親和性が高いのも当然です。「理不尽な進化 遺伝子と運のあいだ」の著者である吉川浩満さんも、進化論についての本を書いたことで知人から以下のような熱弁を受けたそうです。
「やっぱ進化論っていいっすよね。今の社会は弱者や無能に過保護すぎて、本当に優れた者こそ生きづらい。負け組に救済など必要ない。生活保護などやめるべきだ。こうした弱肉強食の真理を教えてくれるのが進化論だ」
吉川さんによれば、素人と専門家で「進化論」の意味が大きく異なっています。専門家はダーウィン派の意味で進化論を扱いますが、それ以外が持ち出すときは大抵ラマルクやスペンサーの意味です。この辺りの食い違いが進化論やダーウィンに対する勘違いを生んでいます。
「キモイ」「気に入らない」「なんかヤダ」でしかない個人的な中身のない感想を、さも科学的根拠に基づいた主張であるかのように装うことが出来る便利さが、素人の持ち出す「進化論」であり現代の「社会ダーウィニズム」です。
これらを踏まえると「生物学的に人間は子孫を残すようにできている。それを放棄するような振る舞いは許されない。そういう生産性のない人間は淘汰されるべきだ」という主張がいかに薄っぺらく視野の狭い戯言(ざれごと)であるか理解できるでしょう。もっとも、自己責任論に肩まで浸かっている時点で正当性など地に落ちたも同然なのですが。
参考サイト
ダーウィンから「社会ダーウィン主義」へ、進化論わい曲の歴史
https://www.afpbb.com
生きづらいのは進化論のせいですか?|SYNODOS
https://synodos.jp