「多様性とは覆しようのない現実」という視点
たまたま興味深い文言を見かけました。「多様性そのものに価値があるわけではない。多様な人間がいるという現実があるだけだ」という文言です。この視点で多様性を捉えるのもアリではないかと思いました。
多様性やダイバーシティを実現ないし体現するとき「多様性は素晴らしい」と喧伝することが往々にしてあります。それとは逆に「多様性に特別な価値は無い」としながらも「覆しようのない現実」であると唱えています。これはむしろ強烈なメッセージになるのではないでしょうか。
前提に「多様性とは現実である」を持ち出して、少し自由に語ってみたいと思います。
多様性という現実
多様性について言われ出したのはごく最近ですが、国籍・年代・障害の有無から職業・生き方に至るまで、画一的だったものは元から何ひとつありませんでした。すでに現実では多様性が証明されており、それを覆すことは不可能であったわけです。人間と生き方に統一規格などないのは真理です。
覆しようのない現実として存在する以上、そこに特別な価値など無く寧ろ普遍的であるという解釈ができます。ある意味では「多様性のある社会」はすでに実現していると言ってもいいでしょう。ただ、格差は残っています。
「出来るだけ多くの人間が己の尊厳を失わず守り通せる社会」こそ、多様性という現実と向き合った果てにあるものだと思います。基本的人権を蔑ろにするようであれば、多様性という現実を直視しているとは言えません。
多様性を認めない多様性という現実逃避
すでに多様性は覆しようのない現実として実現していますが、それでも「多様性を」「ダイバーシティを」と声高に叫ばれています。これは意味のない行いではなく、必要性があるからこそやっていることです。何故ならば、多様性という現実を直視せず逃避し続ける者が未だに多いからです。
未だに植松死刑囚を崇める者「多様性を認めない多様性も保障しろ!」と注文を飛ばす者、差別思想やマウントの為なら情報の真贋(しんがん)を後回しにする者、切実な訴えを「ワガママ」「逆差別」などと退ける者、色々います。
格差こそあれ多様性そのものが実現している以上、これらは単なる「現実逃避」に過ぎません。多様な人間と生き方がある現実に対し、目と耳を塞いで叫んでいるに過ぎないのですが「同好の士」にとって聞こえがいいのか連帯力(ひいては権力)は高いです。
「多様性を認めない多様性」など、本人は上手いこと言ったような気でいるでしょうが、実際は意味の分からない妄言です。多様性のある社会の目標とは「なるべく多くの人が尊厳を守り通せる社会」なので「他人の尊厳を蔑ろにする権利」「差別する権利」を保障せよなどと言っているようなものですね。もちろん、こういった妄言は認められません。
このような現実逃避がまかり通っているからこそ、すでに現実として存在する「多様性」を価値あるものとして伝えていく必要性に迫られているのだと思います。