マリッジブルーから逃れられない人々へ
暮らし出典:UnsplashのBeatriz Pérez Moya
結婚以来12年経ちますが、つい先日まで私はマリッジブルーを少し引きずっていました。夫とは、お見合いサイトで知り合い、1か月ほどで同棲をはじめました。出会ってすぐに好きになったわけではありませんが、短期間でどんどん好きになっていった人なので、お見合いとはいえ恋愛結婚のようなものです。
結婚と同時に失ったもの
私は恋愛を始めると、周りが見えなくなる性質があります。夫に申し訳なくなり、男友達とは完全に縁を切ってしまいました。今思うと非常に身勝手ですし、そんなことをする必要もなかったと思います。親友として関係を続けていれば「異性としてのいい相談相手」にもなってくれていたであろうと気がついたときには、もう遅すぎました。
夫を好きになった当初は夫のことで頭がいっぱいになり、朝から昼は実家の家族と過ごし、午後には電車を乗り継いで40分ほどかけて夫のマンションに向かい、預かっていた合鍵で中に入って18時ごろに帰ってくる夫を待っていました。共に夕食を済ませて楽しい時間を過ごし、夫は車で毎晩実家まで送り届けてくれていたのです。
そんな日々が続いたので、親からも「いっそ、一緒に暮らしてみれば?」といわれました。私も夫も30代のいい歳だったので、親は何も心配していませんでした。むしろ私が精神的に元気になったことを心から喜んでくれていたのです。
最初はあこがれていた2人だけの生活に満足していました。しかし「夫が仕事をしている時間に私は何をしていればいいのだろう」と徐々に不安に思うようになっていきました。自分の持ち物はほぼ何も持たず、最低限の着替えやメイク道具くらいしか持っていっていなかったからです。
夫は「家にいても出かけても何をしていてもいい」といってくれていたのですが、女友達ともしばらく疎遠になってしまっていたので、変なプライドが勝ってしまい「同棲がうまくいっていない」と思われるのも嫌で、女友達にも声をかけることなく独りでうろうろと出かけたりしていました。
夫はどちらかというと無口なほうなので、出会ったころは私が家族の話や友達の話をして楽しんでいたのですが、ただ毎日スーパーへいってご飯を作るだけの日々にだんだんと会話が少なくなっていってしまったのです。夫は私の心中を察し「たまには実家に帰ってもいいんだぞ」と促してくれていたのですが、ここでもなぜか素直になれずずいぶんと家族に会っていない日々が続きました。
今思えば、結婚してしまったらますます実家に帰りにくくなるのです。寂しさも倍増することになぜ気づかなかったのだろうと思いました。のちのちに女友達とようやく会える気分になったときに「いきなり環境を変えるのって良くないらしいよ」「だから、たびたび実家と新しい居場所をいったり来たり、してだんだん慣れさせるのが精神的にいいんだって」と教えてもらいました。
私は病気が落ち着いていて、社会でもしっかり働けていたころ、家族のことが大好きでした。母とは一緒に買い物に出かけたり、晩ごはんのときは父親のお酒好きにつき合って毎日2時間ほど兄と母と4人で談笑したりしていました。
大好きな愛犬の"まりも"と触れ合う時間も大好きでした。ですが、病気が再発し、家で家事手伝いをしていたころは、あまりそういった気分にもなれませんでした。そこへ突然現れたのが夫でした。新しい幸せと引き換えに「実家の家族と過ごす幸せ」をないがしろにしてしまったのです。
そんな中、結婚の日は訪れました。その日初めて正直に両親に向けての手紙でいかに自分が家族を愛していたかを伝えることができたのです。
出産
夫は私のことを気づかってくれ、実家のすぐそばにある賃貸の家を借り、実家から程よい場所にある土地を買って家をたてようと言ってくれました。
そうこうしているうちに、私は妊娠しました。妊娠中は向精神薬は完全にやめました。その結果、統合失調性が再発し、外に出るのも怖くなりました。失調症の状態にあるとき、私は実家の家族になぜか弱みを見せたくないと思ってしまうくせがあります。せっかく借りてくれた実家に近い家からも、家族に会いにいくことがなかなかできませんでした。「寂しい」「怖い」いろんな感情がわき出ていたのです。
また「実家の家族に会いたい」けれど「もう嫁にでたのだから家のことをがんばらないと」と思っているうちにどんどん実家に足を運ぶことができなくなったのです。
産婦人科に通うときにのみ、母親に付き添ってもらうことができました。とても嬉しかったのですが、やはりここでも失調症の症状が出てしまい、母親に話しかけられても不愛想な態度をとってしまっていました。お薬の力に頼れないのは本当につらかったです。
そして、いざ出産のときがきました。陣痛が非常に長く苦しかったため、母と夫が交代で夜じゅう付き添いをしてくれました。母は心臓が弱く、医師からもくれぐれも無理をしないようにといわれていたのですが、長時間自分も眠らず私を支えてくれたのです。
2日がかりでようやく娘が産まれてくれました。真っ先に私は向精神病薬を飲みました。非常に安心しました。久しぶりにまともな思考回路で両親と話ができたのです。しかし、そこで私は不思議な違和感を感じました。赤ちゃんが無事に産まれたというのに、母は顔色が悪いように思えたのです。父も言葉少なく、短い滞在で帰っていきました。
あとで聞いたのですが、母は一晩中陣痛に付き合ってくれたため、心臓にかなりの負担がかかってしまったらしく、かかりつけの医師に「二度と無理はしないでください」といわれていたそうなのです。
産院を退院後は実家で夫と共に、両親と兄と私と娘の6人で暮らすことになっていました。実家に帰ると母は寝込んでいました。分娩前の母は週に2回ほどスイミングに通うほど元気だったのですが、私の陣痛中よほど体力を消耗してしまったのか、別人のように思えました。
母は少しずつ、少しずつ体力を取り戻していっていますが、今現在でも健康とはいえない状態にあります。もう73歳なので、老いもあります。心臓のお薬を飲みながら養生し、毎日をなんとか暮らしているような感じです。そんな母ですが、規則正しい生活をしているおかげか、体調のいい時間帯が分かってきました。その時間帯を見計らって私はよく母に電話をするようになりました。元気なときは1時間くらい話していたときもあります。
私は朝自分の家族を見送ってから午前中は元気なのですが、お昼ご飯を食べてしまうと妙に寂しくなる性質があります。母は逆で、お昼ご飯を食べてお薬を飲むとしばらく元気な状態がつづくのです。ちょうどいいタイミングだと思い、1年少し前までは毎日昼食後は母に電話して談笑していました。マリッジブルーはこのことでかなりましになっていました。子供を産んで、親であるという責任感も芽生え、以前のように家族と対等に話せるようになったのです。実家にもたびたび遊びにいったりもしていました。
そう、1年少し前のあの日までは。
兄との絆とコロナ
それは何の前触れもなくやってきました。私の兄が夜中にトイレにいこうと思い、立とうとしたところ急に足が動かなくなったのです。救急車でのつき添いは私がいきました。娘は夫にまかせ、母は父にまかせました。
何が起こったのか誰にも何も分かりませんでした。検査入院で入院した兄はさまざまな検査を受けましたが、どの検査でも原因は分からず、最終的になんらかの理由による脊髄梗塞の後遺症で腰から足にかけての無感覚感が起こっているとのことでした。
その日から兄の戦いの日々は始まりました。最初は完全な車いす生活。入院手続きはすべて私がおこないました。こんな私でも兄の役に立てている喜びはありましたが、それをはるかに上回る兄の将来に関する不安が当然勝っていました。
兄は少しずつですが、リハビリで足を動かす練習を始めました。足の無感覚感からくる立つことへの恐れ。どれほど怖かったことでしょう。計り知れない不安もあったことでしょう。
最初に救急搬送された病院は救急患者専門の病院だったため、リハビリといってもたいしたことはできなかったそうです。のちに、リハビリを主とする病院に転院しました。そこでは1日3回もリハビリを受けられるのです。腰から足にかけての無感覚感はあるものの、他の筋肉を鍛えてなんとか杖をついて歩けるようになりました。
しかし、そこの病院は3か月したら退院しなければならない制度のため、自宅の近隣にあるリハビリ専門の病院を紹介されました。実家でリハビリを続けながら週2日通院でリハビリをおこなう生活が始まりました。
当然、つき添いで一緒に通う者が必要です。私と父が交代で週1回ずつ、つき添うことになりました。
しばらく兄は順調に通院していました。ですが、再び兄に不運が訪れます。また夜中にトイレに立とうとしたときに、今度はぎっくり腰を起こしてしまったのです。再び最初と同じ病院に搬送されました。そこで1週間寝たきりの生活を強いられ、今度は足裏にひどいしびれを感じるようになったのです。
そのしびれもだんだんと、ましになってはいるようですが、今でも半分くらいは残っているようです。ちょうど、人が正座をして立ち上がるときのしびれのような感じらしいです。
兄は病院に寝たきりにさせられるのがつらく、1週間ほどで退院したと覚えています。
今現在もしびれはつづいており、半分ほどには軽くなったもののやはりつらいようです。実家に戻った兄は再び他のリハビリ専門の病院に通院するようになりました。
実家にいる方が気持ちは落ち着くみたいです。ただ、リハビリを頑張り過ぎて、今まで使っていなかった筋肉で足を動かしているので、常に筋肉痛の状態にあり夜も寝返りをうつたびに筋肉痛で目が覚めてしまい、寝不足が続いているといっています。
だんだんと車いすを使うこともへり、杖で毎日少しでも歩きにいっているようで、去年の今ごろに比べれば身心ともに前に進んでいるようで、未来には希望を持とうと私も思いました。発症当時には「ずっと車いすかもしれない」と医師から聞かされていましたので。
このように「実家にとって必要とされている」という思いで、薄れていった私のマリッジブルーですが、今でも寂しい気持ちは残っています。最大の原因はやはり"コロナ"です。私の父は元内科医なので、健康に関することには過剰なまでに敏感で、私が実家を訪れることをあまりよく思っていないのです。
確かに小学生の娘がおり、買い物にも出かける私なので、無症状で菌を持っている可能性が高いという言い分もよく分かるのですが、兄を迎えに実家にいくと異常に距離をとられるのです。
また、1番話がしたい母と話していると「もうちょっと離れろ」とか、「そろそろ帰るか」といわれます。確かに心臓の弱い母や足が不自由な兄がコロナにかかったら大変なのは重々承知です。ですから、当然マスクはしてますし、テーブルでも十分に距離を取って話をしているのに、そんなことをいわれるとさすがに腹が立ちます。
母は私の気持ちをくんでくれ、父が不在のときはゆっくり話してくれます。兄も楽しそうに「通院のつき添いにきてくれてありがとう」といってくれます。ですが、父が不在のときはあまりないため用事を頼まれたり、通院の付き添いのあともちょっと話すだけで帰らざるをえなくなっています。
これが私がいまだに少し、マリッジブルーから逃れられない理由です。
コロナが流行る前にもっともっと、実家に顔をだしておけば良かったと後悔しています。ですが、もう12年も結婚生活を送り、いいママ友もできて、娘も小学5年生になりました。そして1番寂しい午後の時間帯にこの仕事をさせていただいているおかげで、もうそろそろマリッジブルーからも逃れられるかなと思っています。
「親孝行、したいときに親は無し」にならないようにしましょう。私のように「会いたいとき」に会いたいと伝えられない人もいるかもしれません。コロナが邪魔しているのでは仕方がないですが、もしそうでないなら、正直に自分の気持ちを伝えて、親には会っておくべきだと思います。
たびたび会っていれば、実家で羽を伸ばし、結婚前の自分を思い出してリフレッシュできます。親も子も離れていくときは自然にだんだんと離れていけるものだと思いますので、甘えたいときはとことん甘えておいていいと思います。そうすれば家事もはかどり、自分の新しい家族との楽しい時間も増えていくことと思います。
しかし、いまだに実家から自宅に帰るときには寂しさがよぎります。そんなとき私は平安時代におこなわれていた陰陽道の"方違え"のような行動をとります。まっすぐに帰ってしまうと誰もいない家にぽつんとおかれてしまったような気がするからです。
正確な"方違え"は興味のある人はウィキペディアなどで調べてみてください。
私のはなんだか自分がやっていることと似てるなと思ったから、"なんちゃって方違え"ですので。やりかたは私の場合はスーパーで買い物をするのが好きなので、買うものがなくてもいったん回り道をし、いきつけのスーパーに寄って何かいいものがないか物色するのです。娘の好きなフルーツやお菓子が売ってないかとか、夫の好きな飲み物やアイスが売ってないかななど考えながら。そうこうしているうちに、自分と家族で過ごしている楽しい時間を思いだせるのです。
人によっていきたい場所は違うと思いますので、公園でも雑貨店でも本屋でもいいので、ぜひ一度試してみてください。ずいぶんと気持ちが変わります。
あと、最近思ったことですが、リビングやキッチンなど、自分が過ごす時間が長い場所に自分の好きな物を置くのもいいと思いました。
うちのリビングはいわゆる蛍光灯のような明るい光ではなく、レストランなどで使われているようなオレンジ色の照明です。
私はそういった照明には慣れておらず、平日の昼間などに独りでそこにいると安堵を覚えるどころか、鬱になってしまうのです。主人はそういった照明が好きなようで、私が変えたいと言っても変えてくれません。それならば、何か自分の好きなものを置いてリビングを「私もくつろげる空間」にしてみようと思ったのです。
私は大阪に住んでいるのですが、京都まで行って石探しをしました。ネットで友人が探してくれたよさそうな石屋さんがあったのです。店中の石を見てまわりました。そして、見つけたのです。我が家にぴったりの輝きのある素晴らしい石に。
そこで水晶のクラスターをリビングに置いてあるテレビの横に飾りました。
すぐに部屋になじみ、いくらみていても飽きない存在になりました。私は実家にいたころの自分の部屋を思い出しました。小さいころから集めてきたさまざまな物に囲まれてくつろぐ幸せを。
今まで午後はコラムを書くことしかできなくて、テレビも本もなかなかリビングでは楽しめなく、音楽だけは楽しめたのでただただ音楽だけを聞いて休憩をとっていました。それが、水晶のクラスターが来てからは、テレビも見れるし、本も読めるし、何よりゆったりとした気持ちでひとりでいることを楽しめるようになったのです。
このようにさまざまなことを試してきて、今私はとても充実しています。マリッジブルーはなる人もならない人もいるでしょうし、その度合いも人それぞれだと思います。
ですが、もしこのコラムが少しでも何かをえるヒントになってくれればと思い、書き上げました。結婚は素晴らしいものです。自分で自分を大切にできれば。どうか、世の中の家庭を持っている、人々が毎日すこやかな、気持ちで生きられますようにという思いを込めて、このコラムをしめくくらせていただきます。最後まで読んでくださり、まことにありがとうございました。
【方違え|ウィキペディア】
https://ja.wikipedia.org/wiki