主導、土壌、抗議、奔走…T4作戦にまつわる男たちの群像劇
暮らし「安楽死」はしばしば「キモい奴をやっつけてくれる制度」と誤解されており、先日も「弱者男性を救済するには、まとめて安楽死させるしかない!」という書き込みが晒し物にされました。しかし、その誤解を現実のものとして、安楽死の名のもとに生命を選別し抹殺してきた大規模な計画があります。ナチスドイツによる障害者大量殺戮計画「T4作戦」です。
T4作戦を主導したカール・ブラント、土壌を作ったアルフレート・ホッヘ、表立って抗議したフォン・ガーレン、守るべきものの為に奔走したオットー・ヴァイト、この4人の男たちを通して悪名高い大量殺戮計画の姿を覗いてみましょう。
「T4作戦の主導者」カール・ブラント
1人目は、T4作戦の主導者として後世に名を遺すカール・ブラントです。医師であるブラントは、アドルフ・ヒトラーの副官が自動車事故に遭った際に救命治療を行ったことから、ヒトラーに気に入られて側仕えの侍医に任命されました。ナチ党の中でもかなりの高位にまで出世したことが窺えます。
1939年の「クナウアー事件」でブラント自ら重度障害児を殺害したのを皮切りに、T4作戦は本格的に動き始めました。まず考案されたのは「灰色のバス」で、車内に排気ガスが充満するよう改造したバスに障害者らを乗せ、一酸化炭素中毒でまとめて殺してしまう方法です。これはガス室、ひいては後のホロコーストの基礎になったといわれています。
虚偽の理由で障害者を誘い出し、遺族には虚偽の死因を伝える隠蔽工作もしていましたが、やがて多くの遺族に怪しまれるようになりました。民心の低下を嫌ったヒトラーは1941年に表向きの「作戦中止」を決定しますが、実際は精神病院以外の場所とガス殺以外の方法で殺害を継続しており、巧妙化された移送手口のもと、死因は毒殺や餓死へと変わっていきました。医師や看護師の独断による殺害も横行し、死者数は中止命令後の方が多かったそうです。
ブラントの影響力は凄まじく、負傷した住民や兵士への病床を確保するための精神病患者への口減らしが「ブラント作戦」とまで名付けられました。1944年にはドイツ医学のトップである「公衆衛生及び保健国家委員」となり位人臣を極めます。
しかしそれも束の間、ヒトラーへの投薬に関するいざこざで信任を失ったブラントは総統付医師職を解任されました。ベルリン陥落前には自分の家族だけ疎開させていたことでいよいよヒトラーの怒りを買い、秘密警察のゲシュタポに捕まって死刑宣告まで受けてしまいます。助命はされましたが、晩年はヒトラーから疎まれていたようです。
戦後、連合国側に逮捕されたブラントは、あれだけの事をしでかしたのですから当然ニュルンベルクの医者裁判にかけられ、今度こそ死刑を言い渡されました。絞首刑の直前、「人体実験の最先端であるアメリカが、その実験を真似た他の国家をどうして裁けるのか」「お前達も広島と長崎に原爆を落として大量殺戮しただろうが」「俺も独裁権力の被害者だ。俺はただ、他の市民がそうしたように祖国の為戦ってきたんだ」などと喚いていたそうです。
「いずれ排除は許される」アルフレート・ホッヘ
2人目は、T4作戦の礎を築いた男アルフレート・ホッヘです。ホッヘは正式な精神科医なのですが、当時の精神科医は患者を集団管理するなど未成熟かつ低レベルな存在でした。ゆえに、ヒトラーと当時のドイツ精神医学は利害の一致した協力関係でもあったのです。
ホッヘの悪行とは、1920年に法学者カール・ビンディングと組んで「生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁」なるものを著したことです。「生きるに値しない命」というフレーズもこの時に生まれ、明確な定義はしていないものの、知的障害者や精神障害者を指していると思われます。「本人の為にも、社会の為にも、彼らは安楽死させるべき」と主張されており、100年以上前から「安楽死」が歪曲されていたことも窺えます。
ホッヘは精神障害者について罵詈雑言を並べ立てた他、「国家有機体とは人体のようなもの。全体の為には、用済みだったり有害だったりする部分を取り除くものだ」「いずれ精神障害者の排除は、犯罪どころか有益な行動として許される日が来る」などと書いています。ビンディングも「知的障害者は親族にも社会にとっても重荷なので、求められれば殺害しても許されるべき」としています。
この「生きるに値しない命を~」は当初、トンデモ書籍として扱われていました。しかしヒトラーが政権を握ると一転して聖典の如く崇拝されるようになり、T4作戦やホロコーストの基本思想にまでなります。経済効率性を高めたいヒトラーにとって、さぞ有難い経典だったことでしょう。ヒトラーと精神科医の協力関係がここに成り立ち、熱心な精神科医ほど積極的に殺害へ加担する状況となりました。
終戦後のドイツが「脱ヒトラー」へ躍起になり、チョビ髭や挙手へ厳しい国柄になったのは知っての通りです。しかし、T4作戦に関する反省や謝罪は2010年のフランク・シュナイダーによる追悼式典まで遅れに遅れました。終戦後の精神科医は、こぞって「悪いのはナチスやヒトラー。自分達は利用されただけ」と被害者面で責任転嫁を始めたからです。
この態度の変わりようは、殺害に関わった医師がほとんど亡くなったからだと言われており、ジャニー喜多川氏の死後に性暴力スキャンダルが燃え上がる様子とまるで似ています。また、東西ドイツの統合で資料が行き来しやすくなったことも挙げられます。
ちなみに、ホッヘの共犯者であるビンディングは、生前ライプツィヒの名誉市民に任命されていましたが、「生きるに値しない命を~」を書いたことでそれを剥奪されています。名誉市民の剥奪も2010年のことで、ドイツの障害者観を大きく変える年だったといえます。
「刃向かいし漢」フォン・ガーレン
3人目は、クレメンス・アウグスト・グラーフ・フォン・ガーレンというフルネームを持つ男です。ガーレンはミュンスターの司教を務める聖職者で、戦後は枢機卿にまで上り詰めるほどの実力者でした。T4作戦に対して明確な敵意を示し公然と批判したことが有名です。名士としての影響力も凄まじく、宣伝大臣のヨーゼフ・ゲッベルスでさえ全く歯が立たなかったといいます。
ガーレンは、お膝元であるミュンスター教区の民衆への説教という形で自らの見解を訴えました。曰く、「『生産性のない人間』の殺害が認められれば、誰もが安全ではなくなる。何処かしらが『生産性のない人間』を判定すれば、好き勝手な殺害から我々を守るものが無くなるからだ」「生産性を他者から認められる者だけ生きていいというのなら、年老いた人はどうなる?働き続けて身体を壊した人は?お国の為に傷ついた兵士たちは?『生産性のない人間』への殺人をひとたび認めれば、際限なく全ての人間が自由に殺し合えるようになるだろう」
T4作戦への抗議は、政権批判の一部であって主体ではなかった説もあります。そうだとしても、ガーレンの説教が与えた影響力は大きく、連合軍は情報戦としてガーレンのビラをばら撒き、時のローマ教皇であるピウス12世は安楽死に反対する立場をとりました。
ナチ党内部ではガーレンを処刑すべしとの声もありましたが、相手はミュンスターの名士と名高い上、プロパガンダの達人であるゲッベルスをも退けた人間です。安楽死の噂が広まって民衆の信頼が損なわれると恐れたハインリヒ・ヒムラーは、T4作戦の中止を提案。ヒトラーもそれを受け容れ、“表向きの”作戦中止に至りました。殺害計画はより陰湿で残忍で野放図な方面に変異してしまいましたが。
結果や思惑はどうあれ、ゲッベルスやヒムラーさえ萎縮させるほどの影響力を持つガーレンが、T4作戦ひいては安楽死の濫用に待ったをかけたのは非常に有意義な出来事です。ガーレンの説教は、生命の選別を望み自分が選別する側と信じて疑わない者が跋扈する現代にも通じる名文といえるでしょう。
「盟友リヒトを救え」オットー・ヴァイト
4人目は、先天的な聴覚障害と後天的な失明を抱えながらブラシ作りの作業所を運営していた男オットー・ヴァイトです。ヴァイトは身体障害者のためか、厳密にはT4作戦そのものとは関係ありません。ただ、ホロコースト真っ只中のベルリンでユダヤ人スタッフを救うために奔走した英雄ではあります。
40代で失明し、形がぼんやり分かる程度しか見えなくなったヴァイトは、職業訓練の末に箒やブラシを作る仕事へ転職しました。ブラシ製作は当時の視覚障害者の間ではメジャーな仕事で、ヴァイトはやがて自分が運営するブラシ製作の作業所を設けます。国防省も納入先にあるという理由で軍需産業としてナチスから認可を得たあたり、なかなか強かな男です。
ヴァイトの作業所はユダヤ人を35人ほど雇っており、そのほとんどは視覚障害や聴覚障害を抱えていました。ナチスの手が及ばない国外へ逃げようとしても、障害者は受け入れられなかったのです。とはいえ、作業所も絶対安全ではなかったので、ヴァイトはあの手この手でスタッフを匿おうとしました。時にはゲシュタポへの贈賄や偽造書類の作成にも手を染めており、常識の通じないベルリンで命懸けの化かし合いに明け暮れます。
ナチスやゲシュタポの激しい追及は止まず、遂にスタッフの大半は連行されていきます。ヴァイトは収容所行きになったスタッフに対しても諦めず、食料をのべ150もの小包で送り続けました。そんな尽力も空しく、最終的に生き残ったスタッフはたった3人でした。
生存者のひとりにしてヴァイトの盟友でもあるアリス・リヒトに関しては、必死の救出劇がありました。まずヴァイトは、収容所に出入りできる人間へ賄賂を渡し、リヒトと物資や手紙のやりとりが出来るようにしました。そして、別の収容所へ大量移送する「死の行進」に乗じて脱走する手筈を整えます。予めヴァイトが確保していた部屋に逃げ込んだリヒトは、身なりを整えベルリンへ帰還し、終戦後はアメリカへ渡りました。
終戦後のヴァイトは孤児院や老人ホームの建設に尽力し、1947年に生涯を閉じました。別の支援者に匿われて生き延びたインゲ・ドイチュクローンは、ヴァイトの偉業を忘れさせまいと啓発活動に励み、プレートや博物館の設営に関わりました。博物館は作業所をそのまま残してあり、「オットー・ヴァイト盲人作業所博物館」として当時の記憶を現代に伝え続けています。
ヴァイトは諦めの悪さと強かさを弱者の為に発揮できる人間で、ホロコーストからユダヤ人を救った非ユダヤ人を称える「諸国民の中の正義の人」には当然選ばれています。これには「命のビザ」で知られる杉原千畝も入っているのですが、弱者の為に独断でビザ(手書き+大量+連日連夜)を発行した杉原は後で外務省をクビになり、再評価は2000年になってからという冷遇ぶりでした。弱者救済とは実行も継続も難しいものですね。だから才能も理念も意志もない人間はすぐ「死は救済」などとジェノサイド思考で済ませようとするのでしょうね。
参考サイト
ドイツの精神科医と安楽死計画 第2回 ナチズムがめざした人種改良
https://www.nhk.or.jp
オットー・ヴァイトと人知れぬ英雄たち
http://www.newsdigest.de