「理解のある彼くん」と恋愛市場への怨嗟
暮らし恋愛には誤魔化しようのない男女間の非対称性があり、マッチングのアプリやイベントで男性の方が厳しい条件を課されやすいことなどは良い例です。お見合いなど古来のマッチングシステムの崩壊で恋愛至上主義一強となって久しい現在は、モテる男が離婚と再婚を繰り返す「時間差一夫多妻制」とまで言われています。
恋愛市場から排除された人々は、ネットの片隅など人目に付かない所で怨嗟の声を上げ、酷い場合は自分を棚に上げて非モテ叩きに精を出す者までいます。こうした怨嗟の中で生まれた文句のひとつが「理解のある彼くん」ではないでしょうか。
実は今回も「スト6」の時と同じくリクエスト形式で寄せられました。お便りをくださった方は、「『理解のある彼くん』は配偶者やパートナーのいる女性の発達障害者を侮辱している」としながらも、「この言葉には傷つくし批判したい気持ちもあるが、感情論でねじ伏せても同じような言葉が出るたびに傷つくだけ。理路整然とした分析のもと折り合いをつけたい」と述べられていました。理知的な姿勢に敬意を表し、「理解のある彼くん」に迫ってみたいと思います。
「理解のある彼くん」の出自
「理解のある彼くん」の元ネタは、Twitter(現X)などで時々上がってくる、「生きづらさ」を話題にしたエッセイ漫画の数々だそうです。その「生きづらさ」は発達障害に留まらず、精神疾患や希死念慮やセクシャルマイノリティ、中には漠然とした虚無感や厭世観といった説明のつかない事柄もあります。また、前提として書き手は女性が多いです。
こうしたエッセイ漫画には、ありのままの自分を受容するパートナーや配偶者の存在によって「生きづらさ」が和らいだり解決したりするという結末が多いです。確かに大切な人の存在は人を孤独から守り、精神面でも生活面でも支えとなってくれますが、彼氏や夫に解決させるという作劇に疑問を抱かれることも少なくありませんでした。
生きづらさエッセイにおけるパートナーは、しばしば唐突に出てきます。なんの脈絡もなく彼氏や夫にあたる男性が登場し、「今では彼に救われています」となる場合が多いです。同じ生きづらさを抱えた読み手にとっては、「結局恵まれた人間のたわごと」「ただの独身いびり」「何の参考にもならない」といった厳しい感想が出てきます。
こうした作劇のエッセイは掃いて捨てるほど溢れており、いつしか「理解のある彼くん」と揶揄されるようになりました。馴れ初めや親しくなる経緯といった過程や伏線が描かれていないのも相まって、「理解のある彼くんが“生えてくる”」とまで呼ばれています。
また、エッセイ内での描写が「根本的な解決になっていない」との声もあります。生きづらさの内容によっては、パートナーではなく医療や福祉が解決に適しているでしょう。理解や受容と思っていたのが実はパートナー側の我慢で、ふとした拍子に爆発するだろうという懸念もあるでしょう。そもそもエッセイ漫画を出した後に破局ないし離婚を迎えた事例もあるそうです。
理解のあるパートナーと出会って解決したのではなく、生きづらさが既に解決したからパートナーを見つける余裕が出来たのではないかという、前後関係への指摘もあります。なんにせよ、エッセイ漫画における作劇の問題は昔から存在し、ネット社会になって「理解のある彼くん」という共通用語が誕生するに至りました。それこそ、エッセイ漫画を描く側が「理解のある彼くんは出てきません」と注意書きする作品さえあるほどです。
性差への怨嗟
「理解のある彼くん」を共通の言語として浸透させた別の要因に「性差」があります。生きづらさエッセイの作者は大半が女性であることは前に述べました。逆に言えば、生きづらさを抱えた男性が「理解のある彼女ちゃん」に救われる話は非常に稀少なわけです。
この性差は、恋愛における男女間の絶対的な非対称性も併せてこう分析されています。「例えば、発達障害や精神疾患などのある女性でも若ければ恋愛対象として見られる望みがある。しかし、同様の問題を抱える男性は『弱々しい』『生理的に無理』で終わりだ。これが『理解のある彼くん』ばかり多い理由である」
要するに、恋愛市場から排斥された男性による「性差への怨嗟」が、「理解のある彼くん」に乗り移っている訳です。お見合いなど古来のマッチングシステムが崩壊し、恋愛のできる男性が離婚と再婚を繰り返す「時間差一夫多妻制」となったことで、「非モテ」へのセーフティネットが無くなったのも一因でしょう。
「非モテの怨嗟」は3タイプあると考えます。1つは「リア充爆発しろ」と同性にヘイトを向けるタイプ、2つは「理解のある彼くん」のように異性にヘイトを向けるタイプ、3つは自分を棚に上げて非モテ叩きをする同族嫌悪タイプです。後になるほど深刻に拗らせた状態で、「理解のある彼くん」がどうのと言っているのは中度ではないかと思われます。それでもミソジニーやミサンドリーの傾向がみられますし、ヘイト消費そのものが趣味として倒錯しているのですが。
海外にも似たような考え方があり、収入や恋愛において将来の栄転が見込めない若者世代を指す「Doomer」というミームにおいても、「Doomer Girl(Doomerの女性)はなんだかんだパートナーと結ばれる」とされやすいです。(Doomerは非モテと一緒くたにされたくないそうですが)
弱いオスを堂々と排除できる恋愛市場と、「普通に生きていれば恋愛や結婚は出来る」という恋愛至上主義のダブルバインドは想像以上に多くの人を苦しめています。恋愛市場から排斥された者たちの恨み辛みは痛いほどよく分かります。しかし、結局のところこれらは「隣の芝生は青い」程度のものでしかなく、女性は女性で別の生きづらさがあります。
女性ゆえに楽なのか?否!
別のコラムで取り上げていますが、障害のある女性は健常者に比べて性犯罪に遭うリスクが3倍も高いといいます。そして、乳児院や母子生活支援施設に子どもを委ねるのはハンディキャップのある母親が多いです。理由は俗に言う「ヤリ捨て」です。
発達障害や知的障害のある女性でも若いうちはモテるというのは事実ですが、それは言い寄る男性の質を問わない場合の話です。妊娠を機に捨てられるのはよくある話で、酷い場合は多額の借金を押し付けられた人も居ます。まさに性的搾取、個人的に嫌いなだけのものを排除したいだけで騒ぐのとは違う、本当の意味での性的搾取です。乳児院など社会的擁護を生業とする人は、「ハンディキャップのある女性が食い物にされる、弱肉強食の世界が未だそこにある」と説きます。
プレイボーイにとって格好の獲物として、暴力と搾取を受け続け、若い時代を棒に振るのが果たして「恋愛強者」と言えるでしょうか。視野を少し広げてみれば、女性には女性のリスクや生きづらさが存在すると分かると思います。
そして、身も蓋もない話ですが、若いうちでも非モテとして「弱者男性」と同じフィールドに立たされる女性もいます。そんな過去を持つというある女性は自分のネット連載記事でこう語りました。「『女は陰湿』とよく言われるが、男も陰湿だ。ただ、『女にとってダサい』からカッコつけて陰湿な面を隠しているだけなのだ。自分はカッコつけてもらうに値しない女だったから、陰湿な男は数多く見てきた」
話は逸れてしまいましたが、要は「男女の恋愛には別ベクトルの生きづらさがあり、そこに優劣はない」という話です。「性愛に至るなら、美人局(つつもたせ)やハニートラップでもいいのか」「搾取どころか誰にも言い寄られず拒否され続けて耐えられるのか」と問いかけてみるといいかもしれません。ストローマン論法に過ぎませんが。
まとめ
「理解のある彼くん」とは、Twitter上で流れるエッセイ漫画における粗末な作劇への不満が積もり積もって爆発し生まれたスラングです。また、漫画そのものだけでなく恋愛や性愛における男女間の非対称性もまた「理解のある彼くん」の浸透を促してきました。
恋愛市場から排除された男たちの悲哀が転じて、「生きてるだけで恋愛できる女たち」という幻想やルサンチマンになった向きも否定できません。ただ、視野を広げれば女性ならではの別ベクトルでの生きづらさやリスクもあり、そこに優劣はないと分かります。「みんな違って、みんな辛い」わけです。
元はといえば、恋愛市場と一緒になってダブルバインドを仕掛ける恋愛至上主義にも悪い所があります。「結婚して子を産んでこそ一人前」「いい年して独身は異常者」という昭和の価値観が未だに息づいているからこそ、悲しきモンスターは生まれるのでしょう。
ところで、Twitter上のエッセイ漫画には時々価値観の倒錯した内容が投稿されて炎上することもあります。例えば「産まれてきた子は夫との子ではないかもしれないけど、この秘密は墓まで持っていこう」と、浮気相手との「托卵」を壮大な決意であるかのように締めくくり、不貞を美化した投稿がありました。
他にも「前に並んでいる『どう見ても独身の』オタク風男性を、強面の男性が横から一喝して退散させた。子持ち女性としてスッキリ!」という投稿も見たことがあります。エッセイというか自分の願望を書き殴っただけのようですが、それにしてもグロテスクな心理をしていますね。
参考サイト
理解のある彼くんとは【ピクシブ百科事典】
https://dic.pixiv.net