社会のルールと私のルール~暗黙の壁
暮らし出典:Photo by Tingey Injury Law Firm on Unsplash
私は社会のルールや、マナーといったものが正直いって苦手です。苦手というと語弊があるかもしれません。ルールやマナーを理解したり、まもる際に、意味を考えすぎて疲れてしまうというほうが正しいかもしれません。
目に見えないルールやマナーは苦手
たとえば、職場などに入り、周りの人と会話をする際です。もちろん初めは丁寧語、相手によっては敬語を使いますが、その方と何度かお会いして、気ごころ知れてきたら言葉をくずしてもいいのかもしれません。
しかし、私にはそのタイミングが難しく、なかなか自分からは崩せません。これを自然にできる人を見ると、器用でうらやましいなぁと思ったりします。
また、日本の社会には「察する」という独特の文化があると思っています。辞書で調べると、上位2つにこのように出ています。
1 物事の事情などをおしはかってそれと知る。推察する。「気配を―・する」「―・するところ何か隠しているだろう」
2 他人の気持ちをおしはかって同情する。おもいやる。「苦衷を―・する」「彼の悲しみは―・するに余りある」(出典:デジタル大辞泉 小学館)
言葉でいわれなくとも、状況や雰囲気からそれとなく適切な言動をとることなのかなと私は解釈していますが、この察するというのが苦手です。ただし、察するという文化自体はすばらしいものだと思うので、それを否定するつもりはありません。
「察しの美学」と表現していいのかわかりませんが、これによってながい年月をかけて作り上げられた社会や文化は、とても尊いものだと思います。
要するに、察することに長けている文化で培われた社会のルールやマナーというものに、私自身は苦戦してしまうということです。よくいわれる「暗黙の了解・ルール」なども、説明をしてもらわないと理解できず、モヤモヤすることがあります。
どうして私は社会のルールやマナーを理解するのが難しいのうだろう
ではなぜそうなのかを考えてみると、私は幼いころからずっと自然が好きでした。植物や虫などです。一見これらの生き物は、自分たちの意思をもって行動したり「こころ」をもって思うがままに行動しているように感じとれるのですが、よくよく調べてみると実はとても合理的に生きているように見えます。
合理的というとすこし難しいですが、ひとつひとつの生き物それぞれが「自分」や「わたし」をもっているというよりも、どうすればもっとも子孫を残せるか、その目的を達成するよう行動しているように見えるということです。
いってしまえば、そうプログラムされていて、ただそのプログラムに従って行動しており、そこには「個の欲求や考え」は入っていないように見えるということです。
私たち人間と彼らはどうしてこんなにも違うんだろう?なんでそんな生き物の集まりがこんなにも豊かで複雑な自然をつくれるのだろう?ということが知りたくて、私は生き物の研究をする道を目指しました。
そして、私の目指した研究の世界では「理論」というのが最も大切なことでした。理論的な考え方というものです。理論の世界ではなるべく個人的な意見や思い「こう思う」や「こう感じる」というものを排除することが求められます。
たとえば、リンゴが1個あり、そこにもう1個リンゴがあったら、全部で2個といいたくなりますよね。でも理論の世界でそれをいうためには、リンゴ1個というものを定義しなくてはいけません。
つまり「リンゴ1個ってなによ?」というのを決めなくてはいけないんですね。めんどくさい世界ですよね。自分でもそう思います。
とにかく、まずはリンゴ1個とは「ヘタからおしりまでの皮つきの切られていないサラの状態を『リンゴ1個』とします」と定義するんです。
そうすると、それ以上リンゴ1個は変わりません。どういうことかいうと、誰かが「私はいつも4つに切ってリンゴを食べるから、リンゴ1個は4個といってもいいと思う」や「リンゴの中にはタネがあるから、そのタネもリンゴになるんだから、リンゴは切ってみないと何個なんていえないね」という議論はしてはいけないことになります。
そうなんです、理論的考え方をするのには、つねに「定義」して、それらをつかって導き出された答えは「不変」でなくてはいけないというルールがあるのです。
これが私が今まで生きてきて最もわかりやすい考え方「私のルール」になっているのです。
私が楽に生きれるようになるための取り組み
長々書いてしまいましたが、簡単まとめると、私は「定義」があって、答えが変わってはいけないというルールがある世界で長年訓練を受けて、そういう世界に馴染んできました。
そのため、社会のルールやマナー、そして察するといった、正解が人によって変わったり、定義が難しいものに直面すると、とたんに戸惑ってしまうのです。自分でも不器用な人間だと思いますが、それが私なので仕方ないと今は思うようにしています。
ただここで課題になるのが、だからといって「私のルール」を使っていては、とても生きづらく、それがいままで苦しんできた原因でもあるわけです。そこで今では日々こうした考え方を和らげる訓練をしています。
その一番の取り組みが「理解できなくてもとにかくやってみる・続けてみる」ということです。たとえば、あいさつの練習などです。
練習する前は、あいさつをするだけなのに「いま相手が忙しかったらどうしよう、でもマナーだからやった方がいいのか、いやでもあいさつは必ずしろとは決まっていない、タイミングも決まっていない」などごちゃごちゃ考えてしまい、あいさつがなかなかできなかったり、あいさつするのに疲れていました。これと同じで、報告や連絡をできないことがありました。
私の場合はむしろ、あいさつはこのタイミングでするように、報告はこのタイミングでするように、と決まっている方が楽で疲れないわけです。
しかし、こうした考えは一旦おいておいて、今はとにかく毎日あいさつしてみる。報連相は最低限の回数を決めてかならずする。という目標を立ててやり続ける訓練をしています。そうすると、自然といままで悩んでいたことが薄れるというか、苦手意識が薄れることに気が付きました。
続けていると、不思議とだんだん無意識に行えるようになったり、なんとなくの雰囲気で報連相できるようになってきたのです。感覚でいうと、自転車に自然に乗れるようになったという感じです。
いままでは右のペダルをこいで、左をこいで、ハンドルはしっかり握って、チェーンが歯車にしっかりはまってるのを確認してと、考えて乗っていたのが、なにも考えなくても乗れるようになるみたいな感覚です。
この経験は私には大きく、だから社会のルールやマナーを学んだり、いいかえると「訓練」することは大切なんだと、恐らく周りの人よりも1周も2周も遅れて気が付きました。
この経験から、こうして人間の社会はうまく回っているんだなと理解できるようになってきました。そして、なるほどここが、人間が植物や他の動物や虫と大きく違うところのひとつなんだと、実体験をもって理解することができました。
おわりに
最後になりますが、みなさんも「私のルール」があると思います。そのルールが、社会のルールとぶつかった時は「私のルール」を否定したり、ぶつけて無理に抵抗したりせず、一度社会のルールを受け入れてみてください。
そうしたらそのうち社会のルールを自然に乗りこなせるようになるかもしれません。かくいう私も長年「私のルール」で生きてきたので、まだまだ学んでいる途中です。
それなので、今後も「私のルール」を大切にしながらも、社会のルールやマナーをおぼえて、少しでも生きやすく、自分らしく生きていきたいと思っています。
参考文献
【デジタル大辞泉 小学館】