双極性障害で措置入院からリベンジ~なんとか仕事復帰するも…
双極性障害(躁うつ病)◀︎前回のページ:双極性障害で措置入院からの脱出~退院後はハイハイでトイレへ
31歳で躁状態になり措置入院してからの体験談をお話ししたいと思います。
自宅療養から仕事復帰へ
長く本当につらい自宅療養をして、徐々に動けるようになってきました。まず第一に仕事を探すことから始めました。入院生活と自宅療養からの復帰です。デパートのお中元期間限定のパート仕事を見つけました。通勤も仕事も楽でリハビリにはちょうどいい感じでした。同年代の女性とも仲良くなり、なかなか快適に働けていました。もっとちゃんとした就職探したら、とうるさく言ってくるパート仲間のおばちゃんがいました。人の事情も知らずにあれこれ言ってくる人はどこにでもいます。31歳で独身。それだけで自分の価値観を押し付けてくる人もいます。入院して半年以上自宅療養してやっと動けるようになった、というと黙りましたが、今度は結婚したらいい、自分の娘は結婚している、黒髪が堅苦しいから茶髪にしろ、とまで言われました。あのまま入院などせず働いてたら、今こんな失礼なことも言われなかったのに。つらく悲しい気持ちになりました。
国家資格の実務研修を終えて
入院前に合格した国家資格には実務研修がありました。ちょうど実務研修が始まる前には体調も元通りになりました。たぶん執念で体調を合わせていったのだと思います。実務研修が終わって初めて国家資格を活かして仕事することができます。合格発表から実務研修終了まで期間がありましたので、入院や自宅療養といったブランク期間はうまく取り繕うことができました。最初「心因反応」と診断され、双極性障害とはわからなかったときです。心因反応?ショックなことが起こったわけでもないのになんだそれ。よくわからん名前をつけて措置入院なんてさせやがって、というのが私の正直な気持ちでした。わけわからんことで拘束されて1年近く棒に振ってしまった。なんとしても取り戻してやる。資格を活かしてバリバリ働くこと、それが私のすべてでした。
親友自殺の知らせ
最初はうまくいきませんでしたが、いろいろと就職活動や人脈を増やす努力を続けたところ、行政の特別職の仕事につくことができました。どちらかというと定年退職した有資格者を想定しているポジションだったので、若い私にとって待遇はあまり良いとは言えませんでした。それでも行政の特別職、市長室で辞令を受け取り、資格を活かせる仕事でしたので、私は満足していました。市民に対応して、「ありがとう」と言われる。自分の知識が役に立つ。とてもやりがいがありました。ただ真面目で頑張りやな人は思い詰めてしまうこともあります。
離婚して頑張って支払ってきたけどもう限界だ、どうにもならない。人に相談したら離婚なんかするからや、と責められた。どう頑張ってもこれ以上は無理だ、と思い詰めた声で電話がありました。私も入院失業して無職だったときは減免してもらった、何も恥ずかしいことではない、と伝えると、電話口で泣き出されました。国の制度は、請求は勝手に来ますが、お金をもらうほうは自分から手続きしないともらえません。制度を知らないともらえるお金ももらえないのです。自分も頑張りやの負けず嫌いと評されますので、同じような性格の方が思い詰めていると、ついつい対応も熱くなってしまいます。減免頼むわーと鼻くそほじりながら来た男性には近付きたくありませんでしたが。性格っていろいろだなぁと思いました。
そして、仕事にも慣れてきた頃、小学校・中学校と一緒で半生を共にしていた親友自殺の報が届いたのです。
▶︎続きのページ:双極性障害で半生を共にした親友に自殺されて~後悔と慟哭の日々
参考文献
「双極性障害(躁うつ病)とは?うつ病とは違う!その症状や原因、治療法は」
https://shohgaisha.com
「北杜夫と双極性障害?家族とともに歩んだ日々」
https://shohgaisha.com
双極性障害(躁うつ病)