「障害がある人の境界をひろげていくことが、多様性を認めることにつながっていく」(セコラム!第17回)
『セコラム!〜伴走者の立場から障害福祉を考えてみる〜』 vol.17 <毎月25日連載>
こんにちは。世古口です。
今回は様々な活動を一緒にしている仲間の文章を共有します。彼女は、手話エンターテイメント発信団oioi(以下、oioi)の活動にコミットしています。僕はこの文章を読んで、障害をもっと知りたい。それを伝えていきたい。これが「障害」をうすめることにつながると再認識しました。
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実は最近、手話エンターテイメント発信団oioiに入会し、練習日や本番に手伝いに行っています。oioiに入会する前は、「入会してできることってなんだろう。仕事の時間とか予測しにくいし、そんなのでみんなのためにできることってあるのかな」と思って、しばらく入会をためらっていました。
でも、oioiのミッションを実現したいし、聞こえない人のことや手話のことをもっと知りたくて、oioiに入会しました。そもそも、oioiに出会ったのはどのようなきっかけだっただろうか。
わたしが所属する団体が企画するイベントへの出演依頼をしたときに、顔合わせみたいな感覚で、oioiメンバー数人と飲み会をしたのが「はじめまして」。この時に手話を言語として利用している人とおはなししました。ただそれだけで衝撃を受けました。手話って口の形や表情も必ずハッキリ表さないと、意味が通じません。
手話を使っている人たちからすると当たり前なのかもしれないけど、わたしにはすごい光景に感じました。その時はまだ何にも手話が分からず、表情や口の形をハッキリして話してほしいと言われました。
お互いの顔と顔を見合わせます。ハッキリした表情をつくります。相手に伝わるまで話していきます。お互いに自分の思いを見せ合っているような、あるいは、お互いを見せ合うように感じました。その姿がとても素敵だったし、自分もその空間のなかに存在していたのが心地よかったです。
その日以降、手話にもoioiにも興味が湧き、彼らの練習日に見学に行きました。とても楽しかったです。すると、oioiのメンバーが3日間声を出さずに過ごす「声なし合宿」に誘ってくれました。合宿中の3日間、手話のできないわたしにみんなが歩み寄ってくれました。お互いに努力すれば伝わるときがありました。でも、合宿が終わってすぐに、聞こえない人との壁を感じました。言葉の壁だけではない、他のものにも。わたしはすごく驚きました。悲しいのもあったけれども、納得がいかなかったという気持ちに近いかもしれません。耳が聞こえない人にはわたしがたった三日間で感じた壁以上の深さがあって、純粋にそれが知りたいと思いました。
そんなこんなで、予定がつきにくいからパフォーマーとしては無理だけど、やっぱりoioiに関わりたいし、「応援したいから」という意味不明な理由で入会しました。入会して関わっていくうちに、聞こえない人のリアルを見聞きするようになりました。「自分も聞こえない人のことを知らなかったから、きっとみんなも知らないだろう」と思い、聞こえない人のことや手話のこと、oioiをもっと広めたいと思いました。パフォーマーではなくとも、目標は同じバリアクラッシュ。たまにしか参加できないのに、パフォーマーになりたいなんて言ったら失礼だし、いまできることは「広めること」だって思いました。そして今日は、コンテンポラリーダンスの劇的ダンスGekidanとoioiのコラボパフォーマンスがありました。手話×コンテンポラリーダンスである。
この企画において、練習現場から本番までを見守ってきました。普段は手話と無関係なダンサー達もダンスの振り付けと一緒に手話を覚えていました。コラボしたGekidanのメンバーで、oioiと一緒に練習する中で手話に興味を持ってくれた人がいました。その人と話したとき、懐かしい感覚になりました。
わたしがoioiと初めて会ったときに感じた感覚に近いものを、彼は感じていました。oioiが表す手話の表現力に魅力を感じ、日常で手話を見かけると目を奪われると話す彼。彼は間違いなく手話や聞こえない人に対しての見方が変わったと思います。そのとき、わたしは嬉しくなったと同時に、わたしの中で何かが変わった気がしました。
聞こえない人やoioiのことを多くの人に知ってほしい気持ちは少しも変わっていない。けれども、もう1つの「したい」が、わたしの中でひょっこり頭を出しました。私も誰かを変える一員になりたい!と思いました。ただ手伝うだけではなくて。そう思わせてくれるくらい、めちゃんこ良い夜でした。
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昨日素敵なことが2つありました。それは、oioiのメンバーとじっくりおはなししたときに起こりました。
1つ目は、彼女がはじめてoioiと会ったとき/Gekidanの彼が手話に興味を持ったときと同じ感覚を覚えた気がしました。
2つ目は、彼女が耳が聞こえにくい人に対して手話通訳をしていたことです。恥ずかしながらうれし涙を出してしまいました。
ぼくの障害の捉え方に「耳の聞こえない人」がきちんと加わった気がします。まだ捉え切れていない/加え切れていない「障害」をぼくはもっと知りたい。障害がある人の境界をひろげていくことが、多様性を認めることにつながっていくだろう。