成人の知的障害者を「子ども扱い」し続けるリスクとは

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Photo by Chermiti Mohamed on Unsplash

昔、ボクシングか何かで対戦相手同士がベビー用品を贈り合う挑発合戦がありました。いい大人に対する「子ども扱い」は時に強烈な侮辱行動となるわけですが、障害者相手になるとどういう訳かそれがまかり通ってしまいます。不思議ですね。

特に知的障害者が子ども扱いの対象とされやすいです。他の障害でもままある事なのですが、知的障害者に至っては家族も福祉職もやっている可能性が比較的高いといえるでしょう。発達がゆっくりなので無意識にそうなってしまう面もあるでしょうが、とにかく成人を子ども扱いするのが悪い接し方であることは障害者相手でも一緒です。

子ども扱いの具体例

「ちゃん」付け
発達がゆっくりのためか、成人してもなお「○○ちゃん」と呼んでいるケースは多いです。とはいえ、親子間だとクセで染みついている部分もありますので、知的障害以外でも(外でそう呼ばない限りは)十分理解できる範囲内でしょう。
問題は支援者や介護者など、当事者が成人してから知り合う人間が「ちゃん付け」で接してきた場合です。障害を考慮し分かりやすく伝えることと低年齢向けのコミュニケーションがごっちゃになっているとされ、見習いや初心者にはよくあるミスだそうです。

一緒に入浴
特に母親が息子へ、或いは父親が娘へ入浴介助を行うとき、ついでに自分も入浴するつもりでやっている家族がいるそうですが、成人相手だとマズいそうです。大人になっても親と一緒に入浴している状態が果たして善いと言えるのでしょうか。障害を持つ家族の入浴介助と自分の入浴は、遅くとも10歳ごろまでには切り離しておくべきです。
大抵の入浴介助は着衣で行うよう規定されているところが多いです。それに倣い、家族間でも入浴介助の時はジャージなど濡れてもいい服か雨合羽を用意しましょう。「入浴介助ウェア」なるものも売っています。

一人でやれることまで介入
一人でやれることから介助の必要なことまで個人によって様々ですが、その違いを考慮せず何でも介助しようとするのもやめた方がいいです。本人の意志に即していませんし、介助側が徒(いたずら)に疲れ果ててしまいます。何もできないだろうと高を括るのではなく、出来ることを見つけていき交流に活かすのが本人の意志を尊重することに繋がります。ゆえに人と関わるのは加減が難しいのです。

虐待と紙一重

成人した障害者に対する子ども扱いは単に不愉快なだけでなく、虐待と紙一重である危険性が高いです。寧ろ、入居者や利用者を「この子たちは~」と呼んでいる施設こそ虐待が横行しているのではないかという指摘もあります。「第二のおうち」「第二の家族」と自称する程アブナイのです。

まず、里親気取りでいると「時には厳しい愛の鞭も必要だ」との勘違いから虐待へ繋がりやすくなります。また、子ども扱いを続けることで、成人後の発達を考慮せず支援策のブラッシュアップを放棄してしまいます。要するに障害者施設としても職員としても成長しなくなるのです。

支援に携わる者としての成長を放棄しながら障害者支援を続けるのは迷惑以外の何物でもありません。成人障害者への「子ども扱い」を続けることは、成長しない迷惑な支援者として業界に居残っているのとほぼ同義と言えます。

親なき後を見据えよ

障害者の親が最終的に考えねばならないのは、「親なき後」のことです。親の死亡とまでいかずとも、老化に従って子の生活介助は難しくなることは容易に想像がつきます。ゆえに、「親なき後」を見据え、本人なりに自立できるようにする必要があります。その一助となるのが「意思決定支援」の考え方です。

月刊「ノーマライゼーション 障害者の福祉」の2013年6月号では、「意思決定支援」のあり方について語られています。意思決定支援とは、「自己決定そのものに支援を要する知的障害者などが、支援者の独断でなく本人が心から納得して意思決定できるよう支援すること」で、それ自体が合理的配慮となっています。

意思決定支援の柱の一つに「意思疎通支援と情報提供」があります。重度であっても意思はあり、かすかな意思表現を支援者などが汲み取っていけば何を表明したいかが分かるそうです。また、文字や図画など方法に個人差はあれど理解できるよう情報提供することは不可能ではありません。つまり、意思表明を援助しつつ有利な情報を教示できるわけです。

「親なき後」を生き抜くには主体性が必要となりますが、子ども扱いを続けて本人の権利を有耶無耶にしたままでは「親なき後」は生きていけません。財産だけ残していても簡単に搾取されて終わるでしょう。

知的障害者の反抗期は微弱?

知的障害を持つ子が成人しても子ども扱いされる事情にはもう一つ、「頼もしくなった」という実感が湧きにくい点が挙げられます。具体的には、思春期における自己確立や反抗期が比較的弱いのです。第二次性徴以外にこれといった変化がないといっても過言ではありません。

ゆえに子ども扱いが長引くとされ、その脱却には社会的な支援など家庭外からの働きかけが必要となってきます。「社会的な支援」の筆頭にあたる介護や福祉といった支援者には、成人同士としてのコミュニケーションで障害者の自己意思を喚起する役割が期待されるのですが、実情では一律子ども扱いで済ませる施設が蔓延している訳です。

「障害者に居場所を!」とはよく叫ばれ、支援施設の設立理念もそれに則ったものが多いですが、自己意思を認めず子ども扱いを続けるような場所が果たして居場所と呼べるのでしょうか。知的障害者だからいつまでも子どもという訳では決してないのです。

参考サイト

宗澤忠雄の「福祉の世界に夢うつつ」 この子たち|介護・福祉のけあサポ
http://www.caresapo.jp

今後の検討に期待すること|障害者の意思決定支援のあり方について
https://www.dinf.ne.jp

遥けき博愛の郷

遥けき博愛の郷

大学4年の時に就活うつとなり、紆余曲折を経て自閉症スペクトラムと診断される。書く話題のきっかけは大体Twitterというぐらいのツイ廃。最近の悩みはデレステのLv26譜面から詰まっていること。

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