教育虐待の芽を「妻が息子をチー牛と呼んだ」の書き込みから探る
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Photo by Agence Olloweb on Unsplash
ある父親が、「妻が『息子は“チー牛”かもしれない』と悩むようになった」とはてなブックマークに投稿しました。勿論、作り話で盛り上がってもいいはてなブックマークのことなので、その家族が実在するかどうかの根本的な問いは消えないのですが、まあそんな一家が居た訳です。
一方、親から子への虐待の中でも受験戦争が特に絡んでいる「教育虐待」というものがあります。親のエゴと言ってしまえばそれまでですが、そのエゴに「飽くまで自分が理想とする人物像に子を仕立て上げたい」というのも含まれており、これも無関係ではないでしょう。
生まれるべきでなかった侮蔑語で、母親がわが子を形容する状態。ここに「教育虐待の芽」を見ました。自分の理想と乖離するわが子を許容できないのは、既に毒親の領域へ足を踏み入れています。実の子を陰で悪罵する母親のイメージから、教育虐待の何たるかを考えていきましょう。
「どうすれば息子を“チー牛”にしないで済むか」
元の投稿は息子の外出中、両親が二人きりの時のことでした。母親が父親にこう相談します。「息子はチー牛なのではないか?どうにかチー牛にならない人生を歩ませられないか?」
陰で息子を悪罵する姿に、父親は驚きを隠せませんでした。父親も「チー牛」についてなんとなく覇気が無さそう程度にしか捉えておらず、就労移行支援由来だという基本的な成り立ちすら知りません。しかし、下品な侮蔑語であることだけは把握しており、「チー牛」呼ばわりは不適切だと前置きしたうえで母親の意見を聞きました。
父親「まず、どこでその言葉を知った?」
母親「友達のLINEグループで“チー牛”を知り、個人的に調べた上で腑に落ちたのでそう言ったまで」
父親「では“チー牛”について説明してくれ」
母親「“チー牛”とは、リーダーシップも創造性も頼りがいもなく、特に異性関係で大きく遅れており、それによって勝手に逆恨みさえする男のことだ」
父親「なぜ息子が“チー牛”だと思ったのか」
母親「息子の学校内での立ち位置を広く見た上でそう判断した」
父親「出自や社会的階層による差別が許されない中で、なぜ息子を“チー牛”と呼ぶのか」
母親「そう感じたからしょうがない。母親である以前に女性の視点があり、息子がこのままではいけないというのが予想できる。“チー牛”という分かりやすい言葉があるなら、それを使うのは当然」
父親「俺達は息子の人間関係を全て把握してるわけじゃないし、そもそも“チー牛”の何が悪いか分からない。息子は何の非行もしていない。逆に、非行をしていれば“チー牛”じゃなくなるのか?」
母親「そこまでは言ってない。ただ普通の人間として、社会生活を営む上で常識的な身のこなしとか、総体的なことを重んじてもらいたいだけ」
父親「親として、自分のやってきたことを息子に強制することは出来ない。まず、そういう人生観を伝えるうえで“チー牛”などと発するのが間違っているのではないか」
母親「だから、今までそれを言語化出来なかったのが変わったから“チー牛”と言うのは当然だと言ってるでしょ。話さなきゃよかった」
父親「まさか息子を直接“チー牛”と呼んでないだろうな?」
母親「言ってない」
父親は、我が子を陰で“チー牛”と悪罵する母親にショックを受けており、自分ですら妻に何を言えばいいか分からない状態だったといいます。なので会話も平行線のまま終わりました。当たり前ですよね。「息子が私の理想通りに育たなかった。これから虐待してでも矯正する!」と宣言するに等しいですから。
外野は当然、母親の言葉遣いを非難する声が上がりましたが、「“チー牛”に拘って話の主旨が見えてない残念な父親」「息子が非モテ化しないか心配するのは母親として当たり前」「寧ろ母親はちゃんと言語化出来ていて偉い」などと父親批判や母親擁護もまた上がっていました。
最初の母親の発言を思い出してください。「息子はチー牛なのではないか?どうにかチー牛にならない人生を歩ませられないか?」既に自分の理想とする人物像へ息子をはめ込みたい意志が表出されています。息子にスポーツを習わせ、振るわなければ心身に苦痛を与えるのでしょうか。この母親の末路になるかもしれない、教育虐待の“先達”となる事例が既に現実で起こっています。
教育虐待の果て
受験勉強をすれば誰もが良い大学へ入れるとは限らないのと同様に、毒親が支配すれば必ずむごい結末を迎えるとも限りません。テロリストとしての教育を積めば誰でも加藤智大になれるという訳ではないのですから。しかし、教育虐待の果てに起こった2つの結末は実例として厳然と存在します。
ひとつは、虐待がエスカレートした末の「子殺し」です。2016年の夏、名古屋で教育虐待を端緒とする子殺しが起こりました。犯人の佐竹憲吾は、自分の母校でもある私立中学に息子を入れようと中学受験に精を出していましたが、本を破ったり髪を引き抜いたりと虐待はエスカレート。仕舞には刃物で脅すどころか実際に足を切りつけるほどでした。
刃物で脅すのが日常化した末、遂に息子を刺殺。佐竹は近年稀に見る愚かな父親として名を残したのでした。なお、裁判の中で佐竹自身も父親から教育虐待を受けていたことが明らかとなっており、虐待が受け継がれる様子もまた示されています。
もうひとつは、子に恨みを買われた末の「親殺し」です。2023年の春、佐賀県鳥栖市で19歳の男が両親を殺害する事件がありました。男は幼い頃から、学歴コンプレックスを抱える父親より教育虐待を受けており、「失敗作」「人間として下の下」と罵られるなどしていました。男は父親の願い通り、国立の九州大学へ進学しますが、憎悪の火が消えることはありません。進学から1年後、“里帰り”してまで男は、止めに入った母親もろとも父親を殺害したのでした。
男は虐待によって折れそうな心を、“仕返し”への渇望として支えてきたと供述しています。もはや積年の恨みを親へぶつけることにしか生きる目的を見出せない状態となっていました。自らそんな状態へ仕立て上げた父親が息子へ最後にかけた言葉は、大学の成績に対する文句だったそうです。九州大へ受かってなお満たされなかったのでしょうか。
受験ばかりが原因ではない
教育虐待は受験とセットで扱われがちですが、受験は飽くまで子を嵌め込む型の一つに過ぎません。親が望む人物像に子を押し込め、乖離すれば様々な不適応を起こすこと自体が教育虐待の根本といえ、別に受験が絡まずとも教育虐待は起こり得ます。
例えば、「男として生まれたからには、スポーツに青春を捧げて欲しい」「まずは押し付けずに、子どもの主体性を重んじて興味に寄り添う」と嘯いていたとします。ですが、必ずスポーツに興味を示すとは限りません。書物やら鉄道やらに惹かれることもあるでしょう。もしそうなれば静観しているでしょうか。きっと焦りのままに本などを取り上げ、家じゅうから児童書を一掃するかもしれません。
逆に好きなスポーツが出来たとしても、それで納得するでしょうか。「卓球などスポーツではない、他の部活にしろ」「他を蹴落としてでもレギュラーになれ」「せめて全国大会に出ろ」などと要求は青天井になるでしょう。そして、(親の)思うような成績が出なければ子どもの心身を追い詰めていきます。これはれっきとした教育虐待の亜種です。
このような親の辞書に「納得」「充足」の言葉はありません。なぜならば、子どもを自己実現の道具にしている状態だからです。自己実現とは、いわゆるマズローの5段階の最上位に位置し、これを満たすのに果てや終着駅といったものはありません。果てのない欲望を満たす道具として子どもを利用している状態なので、たとえ子どもが世界チャンピオンになってもすぐに「飽き」や「飢え」がやって来ます。しかも、こういう親は概して「子どもの為を思って」と自己催眠に陥っているので、己の過ちを知覚するのも容易ではありません。
そして、これも通説ですが虐待を受ける子どもは「これも親の愛」「悪いのは自分」と思い込み耐えていることが多いです。何なら虐待親であろうと引き離されるのを拒むほどです。なので問題の表面化はしにくく、寧ろ被虐待児が学校ではキラキラしていることさえあります。しかし、こうした“ツケ”が成人後に何らかの形で爆発するのもまた珍しくありません。職場で精神不調になった原因を探ると昔の親子関係に行き着いたという医師の体験談もあるくらいです。抵抗がなければ是非「サーバールーム脱糞」とでも検索してみてください。昔の親子関係が社会人になって爆発する様子が克明に記されています。
もし精神疾患という形で爆発すれば、精神障害者として手帳も交付されるでしょうし、就労移行支援の世話にだってなるでしょう。それこそ、冒頭の投稿者夫人が憂えた「チー牛」ではないでしょうか。己の忌避する結末へ無自覚ながらも自ら歩を進める様子は、滑稽ですらあります。
もっと救いようのない虐待の理由も
色々な意味で世の中は広いので、もっと救いようのない虐待親もまた存在します。それは「子どもは自分の支配欲を満たすためのオモチャ」と考える手合いで、日本の事件史にもそれを示唆するものが幾つかあります。
ひとつは、ある浪人生が父親を暴行して殺害した事件です。その父親は、見せるテレビ番組を著しく制限するだけでなく、祖母からのお年玉で好きなものを買わせておいて理由をつけて転売し着服したり、好きなものを語るだけ語らせて後で全否定の末に焼却処分させたりと、少し希望を抱かせてから一気に絶望させる接し方ばかりしていました。
成長で体格が逆転すると、逆に両親が暴力で支配されるようになり、両親は親戚や知人の家へ転がり込むこともありました。やがて父親は軟禁され、逃げ出そうとしたのを息子に殺される最期を迎えます。その浪人生は東大を目指していたそうですが、本気ではなかったと思います。なぜならば、親を支配することで家を出る必要が無くなったためです。
もうひとつは、後に法律さえ動かした栃木の性虐待です。その娘は中学の時から父親より性虐待を受け、父親の子さえ何人か出産していました。しかも、「出産が多すぎると母体がもたない」と医者に言われた父親は、子宮の全摘出を強行します。家族だけでなく駆け落ちしようとした男にまでも暴力を振るい、父親は自分の快楽を満たす道具として娘を利用し続けました。
娘は就職先で、別の男と恋に落ちました。父親の都合だけで子宮を失った自分を丸ごと愛してくれる男性でした。当然、これを認めたくない父親は暴力で解決しようとします。「一生父の性奴隷になるくらいなら…」娘は遂に、父親を絞殺しました。父親は命乞いするでもなく、「殺したいなら殺してみろよ」と余裕の表情だったそうです。
逃げるばかりで娘を救えなかった母親は罪滅ぼしか、大貫という弁護士親子に弁護を依頼します。この時、大貫弁護士は母親が持ってきた沢山のジャガイモで引き受けたと言われています。娘の刑期を縮める為に大貫弁護士が注目したのが、当時存在した「尊属殺人」でした。父親の非道だけでなく、尊属殺人の量刑が平等性に欠けるのではないかという方向性で攻めたのです。
大貫弁護士は最高裁の頃には病身となって出られない状態でしたが、戦術と義理を引き継いだ子どもが自分の熱意もプラスして戦い抜き、極刑は免れました。やがて「尊属殺人罪」の概念は法から消え失せるのですが、その端緒は「毒親」「親ガチャ」の極致でもある執拗な性虐待にあったのでした。
参考サイト
「教育熱心と虐待は紙一重」中学受験ブームに潜む「教育虐待」の闇
https://news.yahoo.co.jp