統合失調症を患い早20年~第8回~ヘルパーさんを利用してと、病気の混乱状態と

統合失調症

統合失調症を患い早20年

こんにちは、かのんです。

前回は1か月の任意入院の退院後に、ヘルパーさんを利用し始めたことをお話ししました。

今回はその後、ヘルパーさんを利用して体験した事や、その頃の私の統合失調症の症状についてお話ししていきたいと思います。

ヘルパーさん利用は、私にとって外出の機会となり、随分と助けていただきました。

2つ目に利用させていただいた事業所さんでは、移動支援を月2回、1回につき約4時間ほど付き添っていただき、遊びに行ったりお茶をしたりしました。

私は絵が好きなのもあり、度々美術館の方へも足を運びました。

美術館が好きな1つに、作品を観れるのもそうですが、静かな空間でじっくりとリラックスして過ごせたことも大きな魅力となっていました。

そんな美術館に通っては、観終わった後にヘルパーさんと近くのカフェでお茶をしたりもしました。

私が行きたかった場所へ1人で行く練習のための下見に付いて来てもらったこともありますし、映画を観に行った事もありました。そして良くカラオケにも行っていました。いつも行くカラオケ店があり、そこへ約3時間。歌いに歌っていたものです。

このヘルパーさん達にも凄くお世話になりました。

この後の他の事業所さんからはまた、週1回、約1時間の散歩へと戻りました。

近所を散策するだけでも、春は桜、夏は新緑、秋は紅葉、冬はこがらしという風に、季節の移り変わりを体感しつつ、ヘルパーさんと談笑しながら歩いたものです。

ヘルパーさんと外出している時期は、本当におちついていることが多く、穏やかに楽しくお話しをしていたと思います。

一転、家では大変でした。

この頃。私の病気を理解してくれるのは家族で母だけだったので、私の病状が出てしまって、わーっとなってしまう時は、ひどく他の家族から責められました。

その時責められている間は、母はどこかへ行ってしまいます。

そしてこの、私が母といて、暴れる、他の家族に責められる、というサイクルを延々と何年も何年も家の中で繰り返していました。

私の気持ちからしたら、頭のなかでいつも思考がハッキリせずに、伝えたいことが母に上手く伝わらないことが多々ありました。そしてこの当時唯一の理解者であると思っていた母に、自分の気持ちが伝わらなくてわーっとなる。というのを繰り返していました。

頭の中での言葉や気持ちが、中々上手く言葉として伝えることが出来なかったのと、いつも不安で頓服を飲んでいたのですが、特に朝夕の不安がもの凄く強かったのです。そのせいで特に朝夕と調子を崩すことが多々ありました。

この朝夕の決まった時間に不安が襲ってくるのは、PTSDの症状もあったと思うのですが、この頃は気が付かずに、ただただ強い恐怖が押し寄せてきて頭の中がめちゃくちゃになってわーっとなっていました。

主治医の先生もこの頃ずっと同じ先生に診ていただいていたのですが、病状はあまり良くならず、進歩は中々難しいものがありました。

この頃に主治医の先生から言われていたのは、「私は休むのが下手だから休むということを意識的にした方がいい」というのと、「目標を高く設定しすぎる傾向があるから、1つ1つのハードルを下げた方がいい。1日1用事でいい」と繰り返し言われていました。この言葉は紙に書いて残していて、今でも部屋の前に貼っています。

他の症状としても、強迫観念が強かったり、急に物事を判断することが苦手だったり、変化に弱かったり。被害妄想で家族にも度々馬鹿にされてると思ってしまう事がありました。

それを毎日ノートに書いて、また次の診察の時にそのことを話す。という状態で、日々が過ぎていきました。

今回はこの辺で。

また次回お話しの続きをしたいと思います。

統合失調症を患い早20年

かのん

かのん

20代前半の大学生の頃に精神科を受診。統合失調症と診断される。統合失調症の中でも、不安障害やPTSDなど症状は多岐に渡る。GW(グループワーク)や、地域活動支援センターなどを利用し、紆余曲折を経て現在就労継続支援B型へと通所と在宅を併せての利用の運びとなった。
創作が好きでイラストや漫画を描いたり、小説を書くことを趣味としている。

統合失調症

関連記事

人気記事

施設検索履歴を開く

TOP

しばらくお待ちください