発達障害の過剰適応とは〜なりたいものになれない時

発達障害 その他の障害・病気

unsplash-logo Johannes Plenio

普通になりたい。周囲との違和感に苦しむ発達障害者は、そう願いながら必死に生きています。生きづらさへの対処として、しばしば過剰適応をします。しかし、本来の自分を押し殺すことはやがて、どれほど努力しても普通には至れない自分に絶望し、疲れ、崩れてしまいます。では、発達障害者の過剰適応、その果てになりたいものと本来の自分にどう区切りをつけるのか、私の物語をここに記します。

発達障害の過剰適応とは

発達障害のある人がしばしば見せる過剰適応とは、周囲の期待や社会常識に合わせた行動を無理してとることです。年齢が上がるにつれて、自分がどう振る舞うべきかを周囲の態度や知識で知るのです。

私自身もそうなのですが、発達障害者は自分の行動判断と価値基準に自信のない方が多いです。子どもの頃から周りとぶつかり、怒られるという否定的体験を繰り返していく内に、「理由はよく分からないけど、私の言動はたいてい間違っている」、と思いこむようになります。そのため、他の人が良いと主張する基準にただ従って行動したほうがいい、と考える者もいます。

周囲から見れば、「ようやく適切な振る舞いをしてくれた」、と喜ばしく捉えるのかもしれません。しかし、過剰適応による無理を続けることによって、発達障害者は本来の自分を見失い、心身の健康を崩す方もいます。自分以外の言葉が全て正しいと思い込んで言いなりにされ、もしくは努力しても適応しきれていない自分に絶望し、やがて期待と常識に焼き尽くされます。

社会性とコミュニケーションの障害を持つはずが、何故「過剰適応」するのか
過剰適応は、知的障害を伴わず、障害が軽度で能力の高い発達障害者に多いです。男女差で見ると、しばしば女子が多いです。理由は、男子よりも女子のほうが目立った行動上の問題は少ないからです、また、発達が平均よりゆっくりとはいえ、女子の方が言葉と感情の理解と発達が早いので、適応しやすい(ように見えます)。

実際に、著書「自閉症だった私へ」のドナ・ウィリアムズさんや、著書「無限振り子」の高機能自閉症Lobin.Hさんを含む当事者手記は、女性が圧倒的に多いです。しかも、発達障害者は自分を客観視できないという一般論をくつがえすほどの豊かな描写が目立ちます。二人にもう一つ共通するものには、人付き合いの対処として、多様なキャラクターを演じ分けていたことです。

私自身も知的障害のない高機能自閉症タイプで、幼少期から言葉も話さず、昔から今も自分世界の住民です。そのため、私は他者に興味が持てず、相手の気持ちが理解できない子どもでした。しかし、そんなだった私が大人になった今は恥ずかしながら、むしろ周りには「とても優しくていい人だ」、「発達障害だとは思えないほど、よく気がついてくれる」、「話をよく聴いてくれる」、と言われるようになりました。幼少期と今ではすっかり態度を変えた私ですが、次はそうなった理由と経緯について語ります。

なりたいものになれない時

自閉スペクトラム症(ASD)の傾向が強かった幼少期の記憶としては、私がしばしば人を傷つける言動をしたこと、同い年の子どもや大人は私を嫌っていたことです。自分の本心を悪気なく言う、先生の指示を理解できない、相手が泣いている・怒っている理由を理解できない、目の前で泣いて苦しんでいる人を見ても胸が痛まない等。

発達障害のASDでは、感情の発達がゆっくりで、感情表現も苦手な方が多いです。また、子どもは通常5歳前後で心の理論と呼ばれる、自分と相手の視点・考えの違いを理解するのが、ASDでは平均9歳〜遅くて15歳以上になることが多いです。

さらに子どもの私は、笑顔の絶えない感情豊かな子どもに見えました。しかし、実のところ私の感情は赤ん坊のようにシンプルで、笑いと泣きしか知らなかったのでしょう。私の笑顔は目の前の人ではなく、目の前の自然や頭の中の景色に向けたものが多かったです。それは、ASDの特性である興味の限定他者への無関心から来ると思います。自分の世界しか愛せなかった発達障害の私には、やがてなりたいものを見つけます。

正義の味方になりたかった
小学校から中学校時代の私は、恥ずかしながら、強くて優しい正義の味方のような存在になりたかったのです。今思えば、自分の世界が全てだった私にとって身近な友達は、マンガ・アニメのキャラクター達でした。現実での同級生の気持ちが分からない、大人には怒られてばかりの私にとって、言葉も感情も思考も、全てが絵と文字で見ることができる、同じシーンを何度も読み直せるマンガしか安心できなかったのです。

幼少期から目にしてきたマンガ・アニメは、優しさや思いやり、正義といった理想と道徳のテーマが多かったです。それは、私の価値観と生き方にも強い影響を与えました。

優しくて思いやりがあり、良い人達に愛されながらも、周りの評価に囚われずに、自分の正義と信念を胸に真っ直ぐ生きるキャラ。そんなな生き方をしたい、と私は幼いながらに思ったのです。しかし、現実の私は相手の気持ちや都合を考えることができず、ただ自分の考えを押し付けることしかできませんでした。

むしろ、正論で相手を追い詰めたことすらありました。私を含むASDの人はしばしば、知識と記憶は非常に優れていても、理解が追い付かず、実践では上手くいかないことが多いです。例えば、いじめられた子がいればいじめっ子に反撃して守ってあげるもの、とします。その考えに基づき、当時の私はいじめっ子に砂をかけました。しかし、逆に私は先生と同級生に怒られ、いじめられっ子も「余計なことしないで」と言い、直後私は仕返しされました。

また、知識で「こういう時はこうするべきだ」、と心で決めたら、他のやり方へ修正するのが難しく頑固さを発揮することもあります。例えば、「同級生が悪いことをした時は厳しい目で見るべきだ」、という先生の言葉が正しい、と私は思いこみました。しかし、ちゃんと反省して謝る同級生に対しても、「許すべきじゃない。先生も厳しくするべきだと言っていた」、と私は譲りませんでした。しかし、逆に私の方が「厳し過ぎる、相手の気持ちになって」、と注意されました。結局私は、マンガの中のお友達のような、強くて優しい正義の味方にはなれず、周囲いわく「ヒトの心がわからない存在」でした。

人の心が理解できる人になりたくて
小学校時代から中学時代でも、からかいやいじめを受け、周囲との違和感を抱く中、私は高校時代にオセアニアの国へ留学しました。留学先で出会った日本人の臨床心理士さんとの出会いをきっかけに、私は心理カウンセラーになりたいと思いました。研修で留学していたその臨床心理士さんは、日本人留学生を対象に心理カウンセリングをしていました。

自分が抱いてきた違和感や生きづらさ、いじめと不登校の過去から、好きなマンガ・アニメの話を心おきなく話せたのは、その人が初めてでした。その臨床心理士さんはとても優しくて聞き上手で、博学で、私のようないじめや不登校問題の若者を支援するので、私は臨床心理士に憧れました。その出会いをきっかけに、私はとりあえず日本の心理学関係の本を読みました。

もしも、臨床心理士になれたのならば、私は今度こそ人の心が理解できる、誰かを助けることのできる良い人間になれるのではないか。そんな夢を見ました。しかし後に、そんな私の願いも無理なのだと打ちのめされました。留学しているとはいえ、英語も学力も低い私では、大学で心理学を勉強するのは無理でした。高校の先生にも家族にも、そう言われました。

当時の私はなりたいものがあっても、本を読んでいても、「なる方法と資格」を分かっていませんでした。海外で臨床心理士を目指すには、現地人並の英語力と数学、コミュニケーション力、さらに例えるならば上位5位内くらいの学力を証明する必要がありました。

しかし、いじめや不登校、自信のなさから一般教養も数学力も低い私は、諦めて日本の大学に入りました。それでも私は、たとえ臨床心理士にはなれなくても、心理学の他に福祉と哲学関係を熱心に勉強しました。そんな中、自分が発達障害の特性を持ち、いじめ体験による対人恐怖や自己肯定感の低さから抜け出せていないことを、ようやく自覚しました。大学時代の私は、自分の世界にしか興味を抱けず、他者の心に関心があっても、その人そのものに興味を抱けませんでした。

さらに、心理学や福祉関係の知識だけは豊富でも、コミュニケーションが下手で、世間知らずの対人恐怖症持ちだったのです。心を病む人々を助ける優しい人になりたいという理想、そんな人間になるための努力ができない現実との矛盾とギャップに苦しみました。

そのため、臨床心理士から精神保健福祉士の道へ変えた時も、私は正直迷いました。自分が自閉症であることも考えれば、本来自分には臨床心理士や精神保健福祉士のように、コミュニケーション能力や広い視野と教養が求められる仕事は向いていないです。しかも、発達障害者は自分のできること・できないことを客観視できず、自分が苦手なこと、向いていない仕事を選ぶことが少なくありません。

結局私は、優しい人間になりたいと自分が本当にそう願ったのか、それとも自分に自信がないから社会と周囲が良しとする価値基準に従っただけなのか、よく分からなくなりました。「自閉スペクトラム症としての本当の私を自らの手で死なせてしまった」、とすら思いました。

なりたいものになるか、自分になるか

自閉スペクトラム症である自分が本当の自分だと認められたい想い、自分のなりたい人間になりたい、という矛盾を抱えながらも、私は諦めが悪かったのです。大学卒業後は、精神保健福祉士になるための勉強を始めました。
この頃には、自分に合った勉強法と専門知識、最低限の自己管理力、相手の話を聴く姿勢もようやく身に付いてきました。持ち前の勤勉さと記憶力は悪くなかったので、勉強もつつがなく順調でした。何よりも、発達障害でありながら臨床心理士や精神科医、精神保健福祉士として活躍する方々への憧れが、私の背中を押してくれました。

私は私でしかなれなかった
それでも、人の生活を支援する専門職として必要な技術・場面において、やはり私は自分の特性から生じる課題にぶつかりました。

①「会話を上手く聴き取れない」:主にグループでの話し合いにおいて、相手の言葉を上手く聴き取れず、話の流れについていけないことが、しばしばありました。グループワークでは、「話を聞く・理解する」、「メモを取って記憶する」、「タイミングに合わせて話す」、「まだ話していない人はいないか」、「残り時間は」、「自分ばかり話していないか」、「結論をまとめられるか」、といったマルチタスクは負担が大きいです。

②「何を話していいのか分からない」:今まで日本と海外を行き来し、興味も限定されている特性から、私は一般常識も流行もよく分かりません。私は、相手と何を話せばいいのか分かりません。専門的な話をするわけにはいきませんし、けれど私は何気ない会話ができません。たとえ、自分のほうから無難な話題を切り出せても、話を広げることはできません。お店や会社、有名人を本当は知っていても、名前が入らず、中々記憶に残らないのです。相手が話したいのか、黙っていたいのか、相手の表情から察することも難しいです。

精神保健福祉士になる以上、自分の発達障害の特性を克服しないといけない。そう思った私は、聴き取りの悪さを相手に予め伝える、聞き返す、メモして調べる、自分のほうから相手に訊く等、自分なりに努力と工夫をしてきました。しかし、努力や工夫をしてようやく周りに追いつくか、しかしそれだけやっても追いつけないことも多いです。興味の持てないことに興味を持つように自分に言い聞かせ、自分の意見をぐっと抑えて相手の意見を優先させることに、私は疲れてしまったのです。

やはり自分には向いていない、けれどこの仕事すら無理だったら、なおさら他の道も選択も浮かびません。結局私は誰かのためではなく、自分が救われたいがためにこの仕事を、優しい人間を目指したのだ、と思いました。さらには、優しい良い人間になりたかったのは、自分が他人に優しくされたいからであり、それが周りの期待に応えることだからだ、とすら思いました。過剰適応の末に、結局自分を見失ったのです。

過剰適応した私も、ASDの私も、本当の自分
今までそうしてきたように、私は自分を信じることができず、発達障害を乗り越えて精神保健福祉士になることから逃げようとしました。けれど、そんな私を救ってくれたのは、初めてできた親友達の存在でした。

「あなたのような人間こそ、やめないでほしい」:福祉関係の活動や交流の中、話しやすいと感じた人達に対し、私は自分のことを思い切って打ち明けました。私の話を聞いてくれた人達は、数々の嬉しい言葉を私にかけてくれました。

「自分もこの仕事が自分に向いているか不安だから、気持ちがよく分かる」
「でも、あなたなら大丈夫だと思う。自分の悩みとかをこんなにも誰かに話せたのも、心の整理が少しついたのも、あなたが初めて」
「自信のないあなただからこそ、決して思いあがることなく、謙虚で優しい精神保健福祉士になれる」
「あなたは、そのままのあなたでいいのです」

目が覚めるような想いでした。確かに私は、生きづらさを何とかしたくて周りに合わせるよう過剰適応し、一度は自分を見失いました。けれど、過剰適応は決して無意味ではなかったのです。過剰適応は苦しいだけの努力ではなく、自分の空想から外の世界へ歩み寄ろうとした私なりの一歩だったのです。己の努力と周りの支え、苦しみがあったからこそ、私は私を認めてくれる友人とようやく出会い、本来の自分もようやく取り戻せたのです。

どんな人間になりたいかは、自分が決めること
私のような人間を認めてくれた大切な人達のおかげで、私は精神保健福祉士になれました。ただ、やはりまだ臆病な気持ちも残っています。今後どう活動していくかについては、色々な福祉事業所や活動を体験していきながら、自分ペースで考え、模索していこうと思います。最近は書くことへのやりがいに目覚めたので、そちらの活動を中心にやっていきたいです。

正直な所、新しいことへの不安や自信のなさもまだ残っています。けれど、そのままの私を認めてくれる人々の優しさのおかげで肩の力が少し抜けました。優しい人間でありたい私も、ASDとして自分の世界で満足している私も、どちらも本当の私。そう思えるようになりました。

まとめ

発達障害の過剰適応となりたいものになれない時について、以下にまとめます。

・過剰適応とは、発達障害者が、世間一般常識や周囲の期待に合わせるための過剰な努力です。

・過剰適応のやり方は、①一般常識やコミュニケーションの知識と行動パターンを、頭の中でデータベース化する。②状況に応じた色々なキャラクターを演じ分ける。③正しい価値基準を、周りの判断や意見にまかせる。④他者が良いと評価した言動やものをマネする等。

・一見周囲と上手くやれているようでも、実際は発達障害の特性上、自分が苦手とすることにも無理して取り組む、相手の理不尽な要求にも応じてしまう等のデメリットもあります。

・発達障害者の多くは、どれほど努力しても普通に至れない自分に傷つき、もしくは傷つけられることがあります。やがて疲れ果て、自分を見失ってしまいがちです。

発達障害者である自分を、どうしても肯定できない人も多いです。周りにいつも叱られ、呆られ、けなされることばかりであれば、なおさら自信が持てないでしょう。けれど、よく考えてみてください。

私達は社会の常識や周囲の期待だけのために、生きているわけではありません。

社会常識と周囲の期待の中には、私達が互いに生きやすくなるために大切なものもあれば、むしろ現代人を生きづらくするもの、変わってしまうもの、後に間違った常識となるものもあります。

どこまで社会の期待に合わせて努力するのか、どの程度まで自分の特性を肯定し、開き直るのかを決めるのは、自由なのです。

どちらにせよ、どう生きるのかにおいて大切なのは、自分で選んだ道かどうかです。

私もそうですが、いくら孤独が平気な人でも、「ここにいていいよ」、と誰かに言われたいのです。孤独とは、一人でいることではありません。誰かに理解されないこと、誰かに必要とされないことです。

あなたが優しさと悲しみを忘れなければ、あなたを認めてくれる人はおのずと現れます。

さすれば、なりたいものを目指すことも、本当の自分を取り戻すことにも、一歩近づくでしょう。

長き物語に最後までお付き合いしていただいた皆様に、感謝いたします。

参考文献

・本田秀夫(2018年『発達障害、生きづらさを抱える少数派の「種族」たち』SBクリエイティブ

・岡田尊司(2016)『アスペルガー症候群』幻冬舎新書

・岡田尊司(2012年)『発達障害と呼ばないで』幻冬舎新書

・ドナ・ウィリアムズ(訳:河野万里子)(2000)『自閉症だったわたしへ』新潮文庫

・Lobin.H(2011)『無限振子 精神科医となった自閉症者の声無き叫び』協同医書出版社

*Misumi*

*Misumi*

自閉スペクトラム症のグレーゾーンにある、一見ごく普通のネコ好きです。10代の頃は海外と日本を行き来していました。それもあいまってか、自分ワールドにふけるのが、ライフワークの一つになっています。好きなものはネコ、マンガ、やわらかいもの、甘いもの、文章を書くこと。最近は精神保健福祉士を目指しながらコミュニケーションを学び、今後の自分について模索する心の旅人。

発達障害 自閉症スペクトラム障害(ASD) その他の障害・病気

関連記事

人気記事

施設検索履歴を開く

最近見た施設

閲覧履歴がありません。

TOP

しばらくお待ちください