なぜ私は生き辛かったのか?~広汎性発達障害と告げられるまで
発達障害私はある時、うつ病と広汎性発達障害(自閉症スペクトラム症)と診断されました。ですが、実際に広汎性発達障害と実際に告げられるまでにはタイムラグがありました。うつ病と発達障害の「2足のわらじを履きながら」生きてきた今までを振り返りながら、私がなぜ生き辛かったのかを語っていきたいと思います。
子どもの頃の私~正義を振りかざす独りよがりのヒーロー~
子どもの頃の私は(現在も少しそうですが)自分が「違う」と思ったことを「違う」と相手にとにかく伝えなければ気が済みませんでした。たとえ結果として相手を傷つけることになったとしてもそうでした。自分は常に正しく、「間違っている」相手は悪。正義という名の力を振りかざすヒーローを気取っていました。そのため、友達との付き合いも親友と呼べる存在はいませんでした。
今思えばこの頃から生き辛さがコミュニケーションの障害として表れていたのだと思います。小学生になる前から高校を卒業するまで、周りからは変な奴だといじめも受けていました。ですが運が良かったのか悪かったのか、筆記試験などの勉強だけはできたので、学校の先生も両親も当然私も自分が発達障害だとは思ってもみませんでした。
多様性と自尊心~うつ病になって~
高校を卒業した後、私は福祉や保育を学ぶことができる学校に進学しました。高校よりも多様性が認められ、様々な人がいる中で私は学び、友人やサークル仲間と学生生活を送りました。多様性があるということは自分の価値観が認められる可能性もある一方、自分とは違う意見も多く出る可能性もあるかと思います。私も他人、特にサークルのメンバー同士で意見のぶつかり合いを経験しました。意見がぶつかり合うことは決して悪いことではありません。ですが子どもの頃から人やその意見を「正しい」と「違う」の2つにしか分けられない私は、次第に段々と人と自分を比べては「自分の意見が認められない。自分の意見はくだらないし価値のないものなんだ。自分が我慢すれば全部うまくいくんだ」と自分で自分をどんどん苦しめていきました。
そして20歳のある時から体に異変が起き始めました。心臓が内部から締め付けられるように痛くなりました。内科に行っても異常はないと言われ、私は胸の痛みを放置していました。気分は晴れず、常に下を向き、今までほとんどしたことのなかったずる休みもするようになりました。月日は流れ、資格取得のために行った実習でも、実習先の利用者さんや職員さんとコミュニケーションがうまくいかず「自分は何もできないただの役立たず」だと自分でレッテルをはっていました。さすがにこの頃には胸の痛み以外の異変も感じていたので、スクールカウンセラーに相談したところ精神科を紹介され、そこで「うつ病」「広汎性発達障害」と診断を受けました。
しかしドクターが私に告げたのはうつ病のみで、広汎性発達障害については告げられませんでした。なぜ生き辛いのか、なぜ自分は他人と上手くいかないのか、疑問は深まっていくばかりでした。
大人になってからの私~発達障害と分かるまで~
学校を無事卒業し、私は福祉施設の職員になりました。ですが、持ち前のコミュニケーションのぎこちなさや臨機応変を苦手としたことから抑うつ状態が悪化し、その後は会社の事務員や介護施設の職員を転々としていましたが、長くは続きませんでした。長くて1年半、短いものだと4ヶ月。どの職場でもいわゆる「お局様」のご機嫌を取りながら仕事をするというのがうまくいかず、孤立することが多かったように思います。例えば、○○さんという人がいない中、集団でその人の陰口をたたいていれば「そういうのははっきりと○○さんの前で言ってあげた方がその人のためになるんじゃないですか」と割り込んでしまったこともありました。
その後、私と発達障害の出会いは突然やってきました。当時お世話になっていたカウンセラーさんが異動することになり、その時に就労移行支援事業所の存在を知ったのです。就労移行支援事業所とは、障害のある人が就労に向けて訓練をしたり相談を受けたりする場です。当時は詳しいことまで知らなかったので調べていくと、就労移行支援事業所とは何かの他に精神障害や発達障害など障害の情報も多く出てきました。調べていくうちに、私の特徴と合うなと感じるものが発達障害の特性にいくつも出てきました。そして、自分の発達障害を疑うようになったのです。その時はタイミングも悪く、会社から契約終了と言われると同時期に人間関係でトラブルがあり抑うつ状態が悪化していた時でした。私は一大決心をして主治医に「就労移行支援事業所に行きたい。それに発達障害について詳しく検査したいので主治医を変えたい。」と言いました。しかし、前に書いた通り、私は告げられていないだけで元々発達障害だったのです。就労移行支援事業所に通うために障害者手帳の取得をする中で、私は主治医からようやく広汎性発達障害(自閉症スペクトラム症)と告げられたのでした。
ここまでに7年。これまでなぜ生き辛かったのかを問うては分からず自分を責めていた状況から脱出できそうな糸口が見えた気がしました。
まとめ
このように、私は広汎性発達障害と診断されて告げられるまでに長い年月を要しました。主治医としては、私の能力の高い部分を活かせばクローズ就労でも問題はないと判断していたのでしょう。しかし、結果として私はなぜ生き辛いのかをずっと自問自答しコミュニケーション能力の問題から働くことにもずっとしんどさを感じながら生活することとなりました。今は就労移行支援事業所に通いながら、就労に向けて訓練をする日々です。自分の病気や障害と向き合い、自己否定ではなく自己肯定をする練習を毎日続けています。まだまだ私にとっては難しいですが、少しでも前に進んでいけたら良いなと思います。
参考文献
広汎性発達障害 自閉症スペクトラム障害(ASD)