児童虐待の傷跡~生き辛さとの戦い 後編
今回は前回に引き続き大学進学後から現在にいたるまでを書かせていただきました。最後まで読んで頂ければ、こんな悲惨な人生でも希望を見いだすことができるのかと思っていただけると思います。
人生を変えた出来事
両親の言いなりでやりたいこと、将来の夢など考えたこともなく、何かを探すためにとりあえず関東の大学に進学しました。とにかく親から距離を離したいという気持ちもありました。それからは一気に世界が広がったような自由になったような気がしました。講義を受けアルバイトを夜遅くまでやり、サークルで大騒ぎをしてしばらくは本当に楽しかったです。ですがサークルで飲み会を頻繁にするのですが毎回ストレスを感じていました。
私の所属していたサークルの飲み会にはそれぞれの役割があり、私は盛り上げ役でした。いったんそういうイメージが付くと周りはその役をずっと要求します。飲めないお酒を無理やり飲んで痙攣を起こしたりもしました。周りは「またあいつがバカなことをやっている」と呆れている人もいましたが、全体としては盛り上がっていたと思います。私は毎回命がけですから他の人と熱量が違います。自分の居場所を確保するため、辛いと思いながらもどんなことでも引き受けました。「注目されておいしい立場だね」という人もいましたが、それを失うことは死ぬのと同じなのです。それでも今日のお前はいまいちだった、つまらなかったと言われ泣いたこともあります。
そんなふざけて笑いを取るようなことを続けていると、他の仲間も調子に乗り自分を攻撃するようになってしまいました。ただ、言い返せませんでした。反抗期を封殺された人間にとって歯向かうという行動が難しい人も多いです。たとえ理不尽だと思っても母親に逆らうのと同じ意味で、イメージすると恐怖で身体が硬直して声も出なくなってしまうのです。この感覚は虐待や暴力を受けた人間でないと理解できないと思います。思い返すとこの頃からさらにストレスが溜まっていったのだと思います。ある日サークル仲間でボウリングに行ったのですが仲間から罵声を浴びせられました。他の仲間に「言い返せばいいのに」と言われましたが「場の空気を乱したくないから俺が我慢すればいい」と返すのが精一杯で、悔しくて堪りませんでした。
そのような生活をしていくうちに「何かに尽くして対価として自分の存在価値を確保する」いわゆる、依存気質な性格が出来上がっていました。
双極性障害の発症
精神状態が最悪なまま、大学生活を終えて社会に出ていくことになりました。就職して1年ほど経ったころ、仕事についていく事が出来ずストレスによりうつ病を発症しました。進捗の遅れを隠した事を激しく叱責されたからです。現在はある程度よくなりましたが、怒られるという事に尋常ではないストレスを感じてしまうのは幼少期の事が影響してるとカウンセラーに指摘されました。
やがて、うつ病は双極性障害となってしまい、時期的にリーマンショックと重なったこともあり、会社を解雇されてしまいました。その後、自殺未遂を10回以上繰り返し、職を転々としていましたが、どんな状況になっても「こんなところで終わってたまるか」という精神と、助けてくれる友人達のおかげで今の私があります。最も状態がひどい時は精神科の閉鎖病棟にいましたが、そこでも「お前は頭もいいし心も奇麗だから絶対にやれる」と沢山の人が応援してくれました。そこから初めて自己肯定感が芽生えてきました。「自分ほどの過酷な経験をした人はそうそういないだろう、生死をさ迷うような怖い思いを何度もした、だから自信をもって怖がらず前向きに生きよう」と思いました。虐待被害者としてテレビの取材も受けたこともあります。
憎しみの連鎖を断ち切り未来へ
カウンセラーとの面談を重ねるたびに精神状態が良くなっていく私を見て、親は「やりすぎてしまったかもしれない」と初めて謝罪しました。色んな感情が押し寄せましたが、ようやく戦争が終わったと思いました。もちろん焼け野原で傷だらけですが、気持ちは折れていません。戦後の日本が急速に発展していったように私もそうありたいと思っています。
私は、双極性障害を抱えながらも楽しい日々を送る事が出来ています。もちろん体調管理は非常に難しく、1日10錠以上飲まなければいけない薬は本当に辛いです。それでも心が自由である事は幸せです。これまで病気がコントロールできず、愛情に飢えていて見返りを求めるような人生でした。たくさん裏切り、信用を失い、人が離れていきました。とても反省をしています。
これからの人生は、自分を愛し、人に尽くし見返りを求めず、失った信用を生涯をかけて取り戻していきたいと思っています。これは私の選んだ道です。