障害と失敗~自分は主人公じゃない
発達障害出典:Photo by Dom Fou on Unsplash
私はADHDとパニック障害、軽度のASDを持つ、いわゆる障害者です。
障害が診断されたのは最近ですが、障害特性は生まれ持ったものであり、様々な失敗をしてきました。
前回のコラムではそんな私の実体験から、中学時代の失敗について書きました。今回は高校から大学までの具体的な出来事や失敗、反省について書いていきます。
似たような状況や経験を体験した方の参考になれば幸いです。
障害と高校生活
中学2年生の時にパニック障害を発症した私は、少しずつ病気を克服していき、高校へ入学するころにはほとんど体調が戻っていました。
当時私が通っていたのは、中高一貫の男子進学校だったので高校に受験などをせず自動で進学できます。
そのため、長期間の努力が苦手な私は中学3年生まで"全く"勉強をしていませんでした。
高校に入ってもそれは変わらず、補習や厳しい先生の授業のみをなんとかやり過ごし、ほとんど勉強をせずに高校2年生まで終えました。
やっていたことといえば「1にゲーム、2にゲーム、3にゲーム」とだいたいゲームでした。
ゲームは、やればやっただけ"数値"として目に見える形で成長をしていく点、現実のようなイレギュラーがない点で自分に合っているのだと思います。
ゲームであれば、家庭用ゲーム、モバイルゲーム、アーケードゲーム、ボードゲーム、カードゲーム、TRPGなど、とにかく何でもやっており、おこづかいの95%はそこに消えてました。
ジャンルも多岐にわたり、RPG、STG、SLG、音ゲー、レースゲー、対戦ゲー、ノベルゲーなど、なんでもござれです。そのおかげで(?)今でもゲームであればだいたいこなせます。
大多数のゲームに共通することは「主人公は正義であり、なんだかんだグッドエンドを迎える」ということです。
そのため、当時の私は自分のことを主人公のように勘違いし、なんでもできるような気になっていました。
また、負けず嫌いにもなり、大多数のことで50%以上の成功が期待できないものには、手を出さなくなってしまいました。
高校3年生から受験まで
高校3年生までは全く勉強していませんでしたが、流石に受験ということもあり勉強を始めることを決意し、塾に通い始めます。
ところが、講座を聞く通常の学習塾は、自分のペースで勉強できず、全く身に付きませんでした。
次第に行かなくなり、なにも身につかないまま6月になったころです。
私の学校は進学校ながらも1か月半ほどと夏休みの期間が長く、自主的な勉強が求められました。
なので夏休みの間、毎日強制的に12時間勉強をする塾に通うことにしたのです。
その塾は学力にあわせて講師が教材を選んで置いてあり、上から順番にできるだけやっていくというものでした。
結果からいうと、この塾は大正解でした。自分のペースでガンガン進めていいところ、具体例を先に見て自分で応用させられるところ、ついでに無断欠席すると退塾という厳しさが自分にマッチしていました。
余談ですが、ADHDの方は授業を聞くことが苦手な場合が多いと思いますので、こういうタイプの塾がおすすめです。
夏休み期間で遅れていた5年分の学習はほぼ取り戻すことができ、次の模試でも学校で真ん中程度の順位まで戻しました。
その後、学校の授業もほぼ自習代わりに使用し、帰りには塾でがっつり勉強というスパンで生活をしていました。
冬休みには大幅に学力を上げ、本番の受験でもセンター試験で8割5分程度の好成績を残すことができました。
しかしながら、二次試験にきて付け焼刃の勉強のもろさが出ます。というのも、数学の一部範囲に手を付けれていなかったのです。
センターと二次試験では全く別の範囲からも問題が出題されるため、その範囲の対策まで手が回っておらず、結果として失敗に終わりました。
第1志望の国公立大学には落ち、受かったのは滑り止めの県立大学とセンター利用で受けていた私立大学の2つです。
今でも、3か月前から勉強するように当時の私に物申したいです。
自分が優秀だという思い違い
さて、このタイミングで当時の私は大きな思い違いを2つしていました。
まず1つ目は「自分が優秀で特別だ」ということです。
第1志望に落ちたとはいえ、1年弱の勉強で大幅に成績を伸ばし、ある程度の大学に受かったことで、自分を完全に優秀だと思い込みます。
この時から私は自分を主人公のように特別だと思い、非効率な行為をする他人を見下したような視点から見るようになりました。今思うととんでもないやつです。
詳しくは触れませんが、この時の特徴を見るに「自己愛性人格障害」の症状と近いものが多く見られました。
もちろん、そのことを直接外に出すことはありませんが、いわゆる「マウントを取る」という行為が増え始めたのです。
「こちらの方が良いんじゃないですか?」「僕は○○できますけどね」みたいな口出しを多くするようになります。現在も少しこういう癖はありますが、今は人のためにアドバイスすることが多い気がします。
そして2つ目は「大学は甘いところ」と思っていたことです。
当時の私は「大学合格」がゴールと思い、4年間遊べるぐらいの甘い考えでいました。そのため特に深く考えず、学力面だけで寮生活を要求される県立大学ではなく、通学に2時間かかる私立大学を選びます。
みなさんも知ってのとおり、大学はいわゆる自主性が高く、単位などを自分で取得し、自分のやりたいことをしやすい環境です。
逆にいうと、自分で考えて単位を取る必要があり、優先順位に分けて取捨選択を行う必要があるのです。
決まった授業すらまともに受けず、講座を効くのが苦手な私がそんなことをできるわけありません。
ましてや「バイトを行いつつ」「2時間通学で」「遊びを犠牲にせず」これをやろうとしたのです。当時の私には「あほか」としかいえません。
せめて「大学近くのアパートを借りる」とか親に頭を下げてでもなにかを肩代わりしてもらうべきでした。
大学に入学した結果
結論からいうと大学生活はおおむね失敗でした。
学びがなかったわけではありませんが、まず入学してすぐに全て行うことが難しいことを悟ります。
まあ、私に終電までバイトして朝7:00から通学するという生活を遊びながら行えるわけがありません。
そこで私は授業をいくつか犠牲にするという選択をします。今から思うと本末転倒なのですが、自分が優秀だと思うゆえに、弱みを見せること、つまりは親に相談することができなかったのです。
ちなみに2か月目にこの選択をします。そのため早期から単位を落とすことになり、後期のコース分けで希望のコースに行けなくなります。
そのことからさらにモチベーションが下がり、遊びに比重が寄ってしまい、さらに単位を落とします。
結果、学校の授業には興味がなくなってしまい、大学へのモチベーションは相当無くなります。
さらに、遊び面でも失敗があります。
当時、私はこのスケジュールでサークルにも入っていました。
はじめの方はおとなしくやっていたのですが、ゲームがサークル内で流行った際に特性が出てしまいます。
自分が優秀だと思うあまり、他の人にマウントを取ってしまうのです。特に一部の人を半ば貶すような発言をしてしまい、その人たちにめちゃくちゃ反感を買いました。
当時の私的にはお笑いでいう「いじり」のように思っていたのですが、いわれてる側はそう思うわけもありません。
結果、サークルからも疎遠になり、大学へのモチベーションは消え去ります。
この2つの理由から大学にはほぼ通わなくなります。
次回のコラム
Part2となる今回は私の高校から大学の話について書いてきました。
今回は対処法などをあまり載せられませんでしたが、私の言いたいことはただ一つだけです。
それは「発達障害は早めに診断した方がいい」ということです。
もちろん診断が怖いのは、とても分かります。しかしながら、知らないことで発生する失敗やリスクの方が圧倒的に多いはずです。
もし発達障害のような傾向がある人、もしくはその親御さんは検査してもらうことをお勧めします。
さて、次回のコラムでは就職から現在についてを書いていこうと思います。
そこでは、就職での失敗や現在の学びを紹介していきますので、あわせて読んでいただけると幸いです。
注意欠陥多動性障害(ADHD)