PTSDとうつ病~目に見えない苦しさに向き合うまで
パニック障害・不安障害 うつ病出典:Photo by Morgan Basham on Unsplash
みなさんは周りから浮いてしまうと感じたり、家族や同僚とのすれ違いで傷ついた経験はありますか?
何もかも「他人と違う自分が悪いんだ」とふさぎこんでしまって、暗い気持ちに沈んでしまったことはありませんか?
「みんな違ってみんないい」と、私はいつも障害を持つ仲間たちに語りかけます。読んでくれているみなさんも、そのように思っていただけたら嬉しいです。
はじめに
私は産まれた時から普通の日本人とは人種や文化が違うマイノリティで、気づいた時には周りの人たちと気持ちがすれ違ってしまいました。思春期から「私って一体何者なんだろう」と悩み続け、知らないうちにPTSDとうつ病になっていました。
PTSDやうつ病も、誰でもかかってしまう可能性のある病気です。それなのになかなか周りに分かってもらえない病気でもあります。
忘れないでください。「あなたはあなたらしくていい」のです。私と一緒に少しずつ「自分自身」を受け入れて前向きになってみませんか?
PTSD、うつ病とは
「PTSD」はトラウマになるような恐ろしい記憶が、整理されないまま何度も思い出してしまい、当時の恐怖が戻ったように今も感じ続ける精神障害です。
常に神経が張りつめていたり、フラッシュバックに関係する状況を避けたり、感覚が麻痺してしまうような症状がいつまでも続いてしまいます。
「うつ病」は100人に約6人がかかってしまう病気で、暗い気分や自分を責めてしまう"精神的な症状"以外にも、食欲や睡眠欲がなくなってしまったり、頭痛や肩こりなどの"身体的な症状"も起こります。
声を出せないマイノリティ
実は私は、父親が誰なのか分からず薬物中毒の後遺症をもつ母親の間に産み捨てられて、ほんの少しの間だけ孤児になっていました。
在日コリアンの祖父母が私を養子として迎え入れてくれましたが、祖父母は私の母親と仲が悪く「僕はおじいちゃん達が大嫌いな人から産まれたんだ」という苦しみを誰にも話せないまま少年時代を過ごしていました。
家族でさえも私を心から理解してくれない。けれども大人の顔色を見て本当の気持ちを押し込めて、明るく振る舞わないといけない。
弱みを出してしまい祖父母から「おまえはろくでなしの母親と同じだ」「やっぱり養子にしなければよかった」と言われ、頭の中と目の前が真っ白になってしまったトラウマ体験が小学生の時にありました。
心をクローズにしていた私は、他人からどう見られているのかが怖くて、他人の顔色をうかがうことにも疲れて、ひたすら本を読んで自分の殻に閉じこもったまま生きていました。
心の扉を開くとき
そんな私にも好きなことが見つかりました。英語や朝鮮語、中国語などの外国語です。ことばは人と話すための手段。外国語や文化の勉強にのめり込んでいったのは、やっぱり心のどこか奥底で「みんなと分かり合えるようになりたい」と思っていたからかもしれません。
高校生2年生になって私がはじめて心を開くことができたのは、オンラインで知り合ったいろんな海外の友人でした。外国人同士なんだからお互い違って当たり前。彼らと話をして思春期だった私は「自分らしく生きる意味」を探し始めることができるようになりました。
寝る間も惜しんでずっと外国語を勉強していた私は、その時にはもう問題なく英語でコミュニケーションが取れるようになり、人と話すことに自信が持てるようになりました。
社会に飛び出して
私は大学を卒業し、新卒で小売業の夜間スタッフとして正社員入社をしました。
そこからは仕事上でも「コミュニケーションが生きがいだ」と思えるようになって、月に80時間を超える残業も苦ではないような状態でした。店長職や支社の部門責任者を任され、24歳の時に外国人の妻と結婚し、仕事と私生活の両方を楽しんでいるように思い込んでいました。
しかし、それは思い込みだと知ることになりました。
2018年のある日、突然普通にこなせるような仕事ができなくなってしまい、ぱっと思い立って自死を選ぼうとしてしまいました。本当はずっと無理をして働いていたのかもしれません。
「もう何でもこなせるくらい仕事が楽しくて仕方がなかったのに、なぜか今までの自分と違ったようになってしまった。やっぱり祖父母の言うように自分はダメな人間に違いない」
クリニックにかかり心の悩みを打ち明けた時に突然嫌な記憶が、"私が存在している事を祖父母から否定された記憶"がまた実際に起こっているように思えてパニックになり、おう吐してしまいました。
医者からは「気分変調症」と診断を受け、夜勤を避けるように指導されたため退職し、心身が安定しないまますぐに製造業の小さな会社へ転職してしまいました。
社会との衝突
転職をした先では試用期間中に産まれてくる娘のためにも、何とかして正規採用されたいと思い、神経質になりすぎるほどメモを取ったり必死に勉強をしましたが、結果は試用期間での解雇となってしまいました。
解雇宣告の時に社長からは「仕事に合うとか合わないとかそんなんじゃなくて、俺がダメだと言えばおまえはダメなんだ!」と怒鳴られ、精神を追い込まれていきました。
解雇になるまでの試用期間中、部門長から「ウチでは社長との距離感が難しいから、周りと完全に同じになるようにしなさい」と言われていましたが、私にはいまいちその真意がよくわかりませんでした。
「私にとって周りと同じってなんだろう」「そもそも日本人の家庭じゃないのに普通って何だろう」このように思い詰めてしまい、別のクリニックにかかった結果「明確なPTSDが存在し、抑うつ状態にある」と診断され、退職を期に実家に戻ることになりました。
どうしても自分と向き合えなかった私~病気の波
病気の状態の自分を受け入れることができないまま、2019年に再度転職をしてしまいました。
経営コンサルタントの仕事で毎日3時間車を運転し、営業先の部長や社長にプレゼンテーションをこなす営業マンの仕事でした。環境が変わったことで状態が少し落ち着いてきたので、最初はうまく仕事をこなせていました。
しかし、また調子が悪くなってしまったのは社内での人間関係が原因でした。入社をして半年たったころ、職務にも慣れてきて「自分らしく仕事生活」をしていたことが同僚に気に入られなかったようでした。オフィス内で人格否定をされ少しずつ、確実にまた「自分らしさ」が失われていきました。
そのような人間関係の中、再度人格否定をされないか怖くなり過度に緊張してしまい、簡単な業務連絡すらまったく頭に入らないようになってしまいました。
そのことを同僚から責められ、いつも張り詰めた気持ちになってしまい、先輩社員の監視のもとでサービス残業を行い体調も崩していきました。
人格否定が始まって3か月後には昼休みの食事や談笑ですらも全くできなくなり、毎日オフィスビルの非常階段でうずくまって泣いているような状態でした。
仕事がなんとかうまくできても揚げ足を取られ、失敗しても何をしても怒られ、先輩の"教育"だったものが"イジメ"に変化していき悪循環の毎日を繰り返していました。
そこから精神科専門の大きな病院へ転院し「PTSDとうつ病」だと診断されました。
診断書を持って上司や同僚に報告をしたものの「うつ病はうそだ」「仕事ができないなら離婚をしろ」「おまえなんか社会の誰も必要としていない」など、障害に対する無理解に直面することになりました。
ようやく見つかった「生きている私」
「もう誰も信じることができない」「やっぱり自死を選ばないといけない」と、間違った方向に踏み出そうとしていた私を引き留めてくれたのは「私は独りぼっちじゃなかった」と実感させてくれた出来事でした。
出社するふりをして自死しようとする私に、異変を感じ取った2歳になったばかりの娘が、不安げな顔で私を強く抱きしめて「パパ、すき」「パパ、だっこ」と言ってくれました。
その時にようやく「娘のためにも私は生きないといけない」と決心できました。
自分らしさとは普段意識していないところに転がっているものなのです。私の自分らしさとは「愛おしい娘のたった一人のパパなんだ」ということでした。
おわりに
私は在日コリアンとして産まれて、難しい家庭に産まれて、自分は他の人と全く違うと思い込んでずっと苦しんできました。
他の何かや、他の人たちと一緒になることがアイデンティティだと思い込んできました。
ですが、私は私。あなたはあなた。ひとつしかない尊い存在なのです。
私のアイデンティティとは、他の誰とも違う「自由で素直に生きることができる自分」であることなのです。
つらい過去や現在があっても、今私たちはこうやって生きています。みなさんもいろんな想いがきっとあるはずです。いろんなことと向き合いながら生きているはずです。
ですから、自分を押し込めてしまわずに私と一緒に自分らしく生きてみませんか?
参考文献
【厚生労働省 知ることからはじめよう みんなのメンタルヘルス PTSD】
https://www.mhlw.go.jp/index.html
【厚生労働省 知ることからはじめよう みんなのメンタルヘルス うつ病】
https://www.mhlw.go.jp/index.html
うつ病 パニック障害・不安障害